を前に延命の灸をすえたというのは何でもないことである。死ぬまでは生きる日常であることは、ミイラにとっては当然なのだ。
自分がミイラになると、現世の肉づきが却って美しく目にしみてくる。そして俗悪な企業意慾は高まる一方である。
それは私が芸術家としての素質が不足のせいらしい。たとえば、ミイラは老残の身であるから、羞恥もなく鼻持ちならぬ恋はできても、とても青年のころのような夢のような恋をささやくわけにはいかない。しかし小説の中ではできるし、鼻持ちならないものも、そうでなく表現することができる。つまりミイラのお堂をたてることができる。根気はつづかないが、だんだん根気もよくなるようだ。十年、二十年、三十年もたつと、ずいぶん根気がよくなるかも知れん。
しかしミイラの心境は語るべきものではなくて、金色堂を建立すべきもの、その一語につきるかも知れない。
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私はストリップ・ショオや新しいパンパンの誕生を歓迎しているのである。
見世物や本は禁止すべき性質のものではなかろう。このような娯楽については、人々の判断は正直で、興がなければ、客がつかない。どんな田舎でも、そうだ。あくまで実質が物を云い、広告だけでは釣られない。これにくらべると、売薬などは、広告だけはデカデカと、実質がともなわないと人命にかかわり、素人には事が終るまで良否の判断がつかないに拘らず、その取締のオロソカなこと、まったくアベコベだ。
殺人映画や探偵小説の影響で青少年の犯罪がふえたといっても、その反面の教育が非力であり、日本全体の生活不安を救う政治も非力であって、映画や小説にだけ罪をおしつけるのは滑稽な話だ。
相撲なども男のストリップ・ショオのような要素をもっている。商売女が見物するのは仕方がないが、良家の子女が見るべきものではないというような自家製戒律が明治ごろの家庭には存在していたようだ。けれども、これを放置しておいても、見る方に良識がありさえすれば、害にはならない。裸体の大男の組打にひかれて、女の子がワンサと見物に行ったという話もきかない。アンコ型の力士は健康なものではなくて病的なものだから、我々男がふとった大女のジュバンの相撲などに興味がもてないように、女には男の相撲に興味がもてないのかも知れない。もっとも、日本の女の子は宝塚に熱中の程度だから、性的な観賞力が低下しているのか
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