もある。
芸術は、自然に勝らなければならないものだ。東洋の画家は山水花鳥を描き、西洋の画家は女の裸体を描く。いずれも、尤も千万だ。彼らがそれを美しいものと見ているのだから。けれども、現実の女にそなわるコケットなものよりも、もっとコケットな女を何人の人が描いてみせたろうか。まれに天才が、たとえばショパンが、そのような甘美なものを音の世界で表現したり、その裏側の痛々しい絶望を表現したりしたが、芸術の大部分は、それがすでに世評のあるものでも、自然に勝っているものは少いのである。
自然にまさろうとは、俗悪千万な。万人はそれを諦めるが、少数のミイラだけが諦めない。異様な願望だ。
織田信長のような、理智と、実利と計算だけの合理主義者でも、安土《あづち》に総見寺という日本一のお堂をたてて、自分を本尊に飾り、あらゆる日本人に拝ませようと考えた。着工まもなく変死して、工事は地ならしに着手の程度で終ったらしい。秀吉が大仏殿をたてたのは、その亜流であったろう。
自分よりもお堂の方が立派だということを、ミイラどもは告白しているのである。彼らは人を見下していたが、いつも人に負けていた。そして、ほかの人には造れない大きなお堂をつくらないと、安心できなかった。あわれなミイラどもよ。
芸術は、こんな風にして、つくられる。いつも、他人を相手にして。俗悪千万な企業なのだ。晩年のドストエフスキーはそうでないとか、キリストはそうでない、ということはない。むしろ最も俗悪なのだ。最も多く万人を相手に企業した俗悪な魂がミイラになった姿にすぎない。
私はだんだん死ぬということが、なんでもないことに見えるようになってしまった。死にたい、というのではなくて、死にたいようなハリアイもないのである。私は、ねむるようにして、いつでも死ねる。ねむることと、死ぬこととが、もう実際にケジメが見えなくなってしまった。
けれども、そうなると、猛然として、俗悪な企業意慾も起るものである。ますますロマンチックにもなるし、ますます女が美しくも見える。私はミイラの心がわかってきた。ミイラの慾望が。
皆さんは、私がずいぶん粗食で、ほとんど美食に興味をもたないことを信じないかも知れない。又、ほとんど外出しないことも。
私はしかし家の一室に目を光らして、よしよし、末ながく生きてやるぞ、と思いをこらしている。松永弾正が城を枕の自害
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