うと、どうもオックウだ。もう、ちょッと、と、延び延びになっていたが、にわかに書いてみたくなったのである。
 なにぶん、新聞小説というものは、営業の方の責任の一半をうけもつことになるから、書く身はつらく、オックウになる。
 先日、文藝春秋新社の熱海遠足があり、私は宴会に招待された。そのとき、宴会に侍《はべ》った芸者が、廊下で立話をしている。
「文藝春秋って、あんた、文藝ハルアキのことじゃないの。バカにしてるわ」
「そうなのよ。変に読んで通がってるよ」
 と云って、社員どもをバチの半可通にしてしまい、腹を立てていた。察するに、熱海芸者の中には文藝ハルアキ党が多いらしい。
 新聞小説の読者というものは、こういう人種が含まれているのだ。おまけに、こうした人種が何よりの浮遊読者で、小説がつまらないと、ほかの新聞に換えたりする。作者のうけもつ営業上の責任は、こうした人種の好みによるところが多いのじゃないかと思われる。文藝ハルアキなどという読者について考えると、新聞小説などはコンリンザイ書くものかとも思うのである。
 けれども、それだから、なお書きたいような気持にもなるのだ。この人たちは、文芸批評の先入主もなく、作者についても何もしらない。小説とは何ぞや、そんなことも考えず、他によって誘導された読み方をしない。その意味では白紙であるから、この人たちがどう読むだろうか、という興味もわく。とにかく、文藝春秋を文藝ハルアキと読んでいるではないか。それを正しいと思いこんで、ほかに正しい読み方があることを念頭においたことがないのである。
 新聞小説を書くと、こんな人々まで読む、そう考える作者は、ときに楽しくもなる。これは、おもしろいや、そんな気持にもなる。
 とにかく、文芸批評家とか、先入主をたてて読む連中よりは、自分だけの生活を唯一の心棒に新聞の小説もよむという白紙の魂のために書く方がハリアイがあることは疑えない。
 小説というものは中尊寺のミイラのように俗悪な企業でもある。自分のためだか、人に見せたいためだかもシカとわかりやしない。とにかく金銀で飾りたて、海の彼方へ使者を走らし、及ぶ限りのゼイをこらして、百堂伽藍にとりかこまれ、金色のお堂の下に生けるが如く永眠しようというのである。悲しいミイラよ。もっとも、すごく勇ましいのかも知れん。猪八戒《ちょはっかい》のように天人を怖れざるヤカラで
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