「スリッパ、よこせえ! コラ! よこせと云うに!」
 と、影のように追ってくる。人工栄養で余命を支えているのだから、狂人の馬力によっても、フラフラとよろめく程度にしか歩かれない。しかし、私自身も心もとない足どりで、医者や看護婦には、便器でとるように言われていたが、便器がキライで、ムリに便所へフラついて行く。その往復に、この女に呼びとめられたり、追っかけられたりするのが、苦痛であった。彼女に病毒をうつした夫の方は健在で、時々見舞いに来ているという。
 私は自分の女房を考えて、この患者のことを思うたびに、暗い思いに落ちた。
「ボクは大丈夫かも知れませんが、女房が他日発病すると気の毒ですから、この機会に、やっていただきたいのです」
「ですが、本当に、その危険があるのでしょうか」
「あると思っています。それに、慢性のトリッペルは確実ですから、これから持続睡眠療法をやって衰弱すると、でてくる怖れがあるのですが」
 先生は困った顔で、うなずいて、
「ではお気に召すようにしますが、ペニシリンのことは、泌尿科にきいてみないと分量がわかりませんから、きいた上で、適当にやりましょう」
 泌尿科の話では五
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