花咲ける石
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)字《あざ》
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 群馬県の上越国境にちかい山間地帯を利根郡という。つまり利根川の上流だ。また一方は尾瀬沼の湿地帯にも連っている。
 この利根郡というところは幕末まであらゆる村に剣術の道場があった。村といっても当時は今の字《あざ》、もしくは部落に当るのがそれだから、山間の小さな部落という部落に例外なく道場があって、村々の男という男がみんな剣を使ったのである。現今では只見川とか藤原とかそれぞれダムになって水の底に没し去ろうという山奥の人々がどういうわけで剣を学んでいたか知らないが、あるいは自衛のためかといわれている。関所破りの悪者などがとかく山間を選んで横行しがちであるから、たしかに自衛の必要があった。また上野(コウズケ)というところは史書によると最も古くから武の伝統ある一族が土着していたところで、都に事があると上野の軍兵が大挙上京したり、また都に敗戦して上野へ逃げて散ったりしている記録などがある。察するに、そういう一族がこの山間に散じ隠れて剣を伝承するに至ったのかも知れないと考えてみることもできる。ダムの底に沈もうとしている藤原などという部落は特に剣のさかんだったところだが、言葉なぞも一風変っているそうだ。
 沼田から尾瀬沼の方へ行く途中に追貝(オッカイ)という里がある。赤城山と武尊山にはさまれた山中の里であるが、この山中ではこの里が中心のようになっている。
 いつの頃からか追貝に風の如くに現われて住みついた山男があった。剣を使うと、余りにも強い。村民すべて腕に覚えがあるから、相手の強さが身にしみて分るのである。しかも学識深く、オランダの医学に通じて仁術をほどこし、人格は神の如くに高潔であった。ただ時々行方不明になる。そのとき彼は附近の山中にこもって大自然を相手に剣技を錬磨しているのであるが、その姿は阿修羅もかくやと思われ、彼の叫びをきくと猛獣も急いで姿を消したと伝えられている。
 彼の名は楳本《うめもと》法神。金沢の人。人よんで今牛若という。十五にして富樫白生流の奥義をきわめ、家出して山中に入り剣技をみがいた。人体あっての剣技であるから、その人体を究めるために長崎にでてオランダ医学を学び、遂には術を求めて支那に渡り、独得の剣技を自得してこれを法神流と称した。諸国の剣客を訪うて技をたたかわしたが、敵する者が一人もなかったので、はじめて定住の気持を起した。そして山中尚武の地、上野を選んで住んだ。上州に土着しての名を、藤井右門太という。天保元年、勢多郡で死んだが、年百六十八という。多分に伝説的で、神話化されているけれども、天保といえば古い昔のことではない。墓もあれば門弟もあり、その実在は確かなのである。
 法神の高弟を三吉と称する。深山村の房吉、箱田村の与吉、南室村の寿吉である。これに樫山村の歌之助を加えて四天王という。この中で房吉がずぬけて強かった。
 房吉は深山村の医者の次男坊であったが、小さい時に山中で大きな山犬に襲われた。犬の勢いが鋭いので、逃げることができないが、手に武器がない。犬の身体は柔軟でよく回るから、素手で組みつくと、どう組み伏せても噛みつかれて勝味がない。小さいながらも房吉はとッさに思案した。敵のお株を奪うに限ると考えて、やにわに犬のノド笛にかみついたのである。そして犬のノドを食い破って殺してしまった。血だらけで戻ったから家人がおどろいて、
「どうしたのだ」
「これこれで、犬を噛み殺してきました」
「ケガはないのか」
「さア、どうでしょうか」
 身体の血を洗い落してみると、どこにもケガをしていなかった。祖父の治右衛門は法神の指折りの門下であったから、孫の剛胆沈着なのに舌をまき、剣を仕込むことにした。上達が早くて自分では間に合わなくなったから、法神に託したのである。
 この房吉、ただの腕白小僧と趣きがちがって、絵や文学を好み、それぞれ師について学ぶところがあり、若年のうちから高風があった。しかも剣の鋭いことは話の外で、彼の剣には目にもとまらぬ速度があった。師の法神は房吉の剣を評して、
「彼は白刃の下、一寸の距離をはかって身をかわす沈着と動きがある。これはツバメが生まれながらに空中に身をかわす術を心得ているように天性のものだ。凡人が学んでできることではない」
 といっていた。しかし彼には天分があったばかりでなく、人の何倍という稽古熱心の性分があった。免許皆伝をうけて後も怠ることなく、師の法神が諸国の山中にこもって剣技を自得した苦心にならい、霊山久呂保山にこもってまる三年、千日の苦行をつんだ。苦行をおえて戻った時に、彼の筋肉は師の法神のそれと同じくあらゆる部分が力に応じて随意に動くようになっていた。つまりどこにも不随意筋というものがない。下の話で恐縮だが、男の例の一物は随意に動くものではない。ところが彼はこれすらも随意に収縮することができた。これを小さくおさめて敵の攻撃を防ぐことができた。武技だけでは、こうはいかぬ。意馬心猿の境地ではおのずから裏切られてしまう性質のものであるから、つまり彼は剣聖の境に達したのである。法神はこれを見てことごとく賞讃し、秘訣の全てを伝えて跡目に立て、加賀之助の名を与えた。後に星野家へ養子となったから、星野加賀之助とよぶわけだが、一般に昔のまま須田房吉で通っている。村人にとっては、その方が親しみがあるのだ。
 この山中に知行所をもつ旗本の代理で毎年知行を取り立てにくる男に犬坂伴五郎という御家人があった。貧乏御家人だが剣では名のある使い手であった。ちかごろ江戸では田舎侍に腕の立つゴロツキが多くなって、吉原なぞでもとかく旗本は気勢があがらない。田舎侍に一泡吹かせてやりたいものだとかねて思っていたが、この伴五郎が房吉に目をつけた。とにかく滅法強い。法神流はそもそも剣の使い方が根本的に他流とちがっている。身体全体が剣であり武器である。場合によっては頭でも突く、足でも蹴るで変幻自在、機にのぞみ変に応じてきわまるところがない。したがってその練習量は他流の何倍何十倍とかけられているから、こころみに伴五郎が立合ってみると、房吉一門では下ッパの方の門人に手もなくひねられてしまった。
 伴五郎も江戸では剣で名のある男だ。それがこの有様であるから、房吉を江戸へつれて行けば、どこの大道場の大将だって相手にならないことは明らかだ。しかし、房吉はその師に似て至って物静かな人物で、かりそめにも道場破りを面白がるようなガサツ者ではないのであるから、伴五郎の思うように田舎侍をぶん殴ってくれる見込みはないが、江戸へ連れだしさえすれば、そこにはまた手段もある。とにかく、なんとかして江戸へひッぱりだそうと考え、同志をつのって師匠の法神の方を訪れた。
「我々江戸表に於ては多少は剣客の名を得た者でござるが、法神流にはことごとく恐れ入り申した。特に大先生ならびに師範代の房吉先生の御二方は人か鬼かまた神か、まことにただ神業と申すほかはない。房吉先生を江戸へお招きして旗本一同教えを乞いたいとの念願でござるが、若先生を暫時拝借ねがいたい」
 法神も江戸へでるのは一興と思った。そこには諸国の名手が集まっているから、房吉に見学もさせたい。
「よろしかろう。拙者もついでに江戸へでて一服いたすことにしよう」
「大先生まで。ヤ、これは、ありがたい」
 御家人の悪太郎ども、大いによろこんだ。諸方にゲキをとばし無心を吹っかけ、金をあつめて、江戸木挽町と赤坂の二ヵ所に道場をつくった。そして、法神と房吉をまねいたのである。

          ★

 二人が江戸へでてみると、まことに立派な道場だが「天下無敵法神流」という大そうな看板がでているから、さすが物におどろかぬ山男も辟易して、
「天下無敵は余計物だ。とりなさい」
「その儀ばかりは相成り申さぬ。天下の旗本が習う剣術だから、天下無敵。この江戸に限ってただの法神流では旗本の顔がつぶれるから、まげて我慢ねがいたい」
 大ザッパな山男のことだから、こういわれると、こだわらない。なるほど江戸はそういうところかと至極アッサリ呑みこんでしまった。
 御家人の悪太郎ども、この大看板をかかげておいて尾ヒレをつけて吹聴したから、腕に覚えの連中が腹をたてた。毎日のように五人十人と他流試合につめかける。相手になる房吉は、事情を知らないから、さすがに江戸の剣客は研究熱心、勉強のハリアイがあると大いに喜んで、毎日せっせとぶん殴っては追い返す。
 むかし、宮本武蔵は松平出雲守に招かれ、その家中随一の使い手と立合ったことがあった。松平出雲は彼自身柳生流の使い手だったから、その家中には、武芸者が多かったし、また剣の苦手は何かということを彼自身よく心得ていた。彼は武蔵の相手として、棒の使い手を選んだのである。
 棒、もしくは杖というものは甚だしく有利な武器なのである。これは実際にその術の妙を目にしないとその怖るべき性質が充分には呑みこめない性質のものであるが、棒はその両端がいずれも相手を倒す武器であり、いずれが前、いずれが後という区別がない。いずれからともなく現われて打ちかかり、一点を見つめていると逆の一点が思わぬところから襲いかかってくるのである。打つばかりでなく、突いてくる、払ってくる、次にどの方向からどこを目がけて飛びだしてくるか見当がつきかねるという難物で、これを相手とする者は敵が百本の手に百本の棒をふりまわしているような錯覚を感じる。武蔵も夢想権之助の棒には手を焼き、一般にこれを相打ちと称されているが、実際には武蔵が一生に一度の負けをとっている事実があるのだ。
 庭前で試合をすることになり、武蔵が書院から降りようとすると、相手はすでに書院の下に控え、殿様の眼前だからやや伏目に頭を下げて坐っている。見ると、相手は棒使いだ。八尺余の八角棒が彼の前におかれていた。
 とっさに武蔵はマトモでは勝味のない敵だと思った。夢想権之助の棒は四尺二寸で円く軽いが、今日の相手のは八尺の八角棒。長短いずれが有利かは立合ってみなければ見当がつかないが、いずれにしてもマトモでは剣はとうてい歯がたたぬ。
 みると相手は隙だらけだ、当り前の話だ。まず向い合って一礼し、しかる後ハチマキをしめハカマの股《もも》ダチをとり、武器をとって相対するのが昔の定法であるから、まして殿様の眼前のことだ、相手はあくまで礼儀専一に、つつましく控えて武蔵との挨拶を待っているだけの構えにすぎない。
 武蔵はまだ階段を降りきらぬうちに、左の長剣をヌッと突きだして相手の顔をついた。礼も交さず突いてでたから相手がおどろいて棒をとろうとすると、武蔵は左右の二刀を一閃、バタバタと敵の左右の腕をうち、次に頭上から長剣をふり下して倒してしまった。この試合は卑劣だという当然の悪評を得た。
 しかしながら、昔の剣法は実戦のために編みだされたもので、いわゆる御前試合流の遊び事ではなかったから、剣の心構えというものも実は甚だしく切迫していたものだ。したがって徳川以降の御前試合剣道とちがって昔の実戦用剣法は各流に残身などと称し、控え室を一歩でて立合の場へ一足はいればもう戦場、どの瞬間にどう打たれても打たれ損という心構えにできており、試合を終って礼を交して後もユダンができない。試合の場を完全に離れ去るまでは寸分の隙なく襲撃にそなえていなければならない心構えの定めがあったものである。婦人の使うナギナタにすらこの心構えのきびしい定めがあったものだ。
 法神流はむろんこの心構えが厳格だ。相手にユダンあれば挨拶前でもコツンとやる。房吉にしてみればそれが剣の定め、そのユダン、その不覚ぐらい未熟千万なものはないと思っているから、相手にユダンがあると、まことに人ごとながらもナサケなく、苦々しい気持になって、挨拶前でもコツンとやる。相手が怒って剣をとって打ってかかると、尚さらコツンと今度は念入りに一撃して、不浄の物を片づけたような切ない気持で引ッこんでしまう。相手の身になると、これぐらいシャクにさわることはない。され
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