ばといって、卑怯者といきりたち、今度は要心専一に立向ってみても、尚さら手もなく倒されるばかりで、どうにもならない。
 噂をきいて、江戸の剣客という剣客、腕に覚えの連中はあらかた他流試合に乗りこんだが、一人としてよい勝負になった者がない。格段の差、順々にゴミのように打ち捨てられてしまったのである。師の法神はこの結果に満足し、房吉を江戸において帰村した。
 房吉は木挽町と赤坂二ツの道場を掛け持ちし、主として御家人はじめ多くの門弟をとって非常に繁昌したが、ある夏の晩、帰宅の途中、不意に暴漢に襲われた。敵は十四、五人であった。何者とも分らないが、剣の遺恨であるに相違ない。名人房吉と知って斬りかかった一団だから、いずれも腕はたつ。暗夜に房吉をかこんで一時にジリジリと迫った。
 房吉は自然に両刀を握っていた。臨機応変は法神流の持ち前だ。彼の身体が一閃して動きだした瞬間から、その動きは彼自身にも予測のできないものであった。敵の動きに応じる変化があるだけなのだ。走った。斬った。逃げた。斬った。敵の大部分が負傷して追う者がなくなったので、房吉は難なくわが家へ帰ってきた。彼自身は一太刀も傷をうけていなかった。
 留守をまもっていた儀八と太助は彼が村から連れてきた高弟で、師範代であった。
「何者がどういう遺恨で斬りかかったのであろうかなア」
「それは先生が御存知ないだけで、当然こんなことがあるだろうと世間では噂していたほどですよ。江戸の剣術使いは負けた恨みでみんなが先生に一太刀ずつ浴びせたがっているそうですよ」
「それは物騒だな。江戸というところも案外なところだ。教えを乞うほどの大先生がいるかと思ったに、まるでもう子供のような剣術使いばかりでアキアキした。その上恨まれては話にならない。オレはもう村へ帰ろうと思う」
「そうなさいまし。江戸のお弟子はダラシのないのばかりだから、私たち二人でけっこう務まりますから」
「その通りだ。江戸の剣術師範ならお前らで充分だな。それではよろしく頼むぞ」
 あとを儀八と太助にまかせて、房吉は山へ戻った。そして追貝の海蔵寺と平川村の明覚院に道場を構え、星野作左衛門の娘をめとって定住した。

          ★

 薗原村の庄屋に中沢伊之吉という剣術使いがあった。この山中では名代の富豪であるが、若い時に江戸へでて、浅草田原町に道場をひらく神道一心流の剣客山崎孫七郎につき、免許皆伝をうけた。故郷へ帰り、金にあかして大道場をつくり、天下第一の剣術使いのつもりで弟子をとって威張っていたが、近在一帯に法神流全盛で、伊之吉のところへ習いにくるのは小作したり借金したりの義理のある連中だけにすぎない。
 房吉が江戸を風靡して帰村したという評判が高く、伊之吉の存在なぞは益々太陽の前のロウソクぐらいにしか扱われないから、ついに堪りかねた。門弟をよび集めて、
「ちかごろは田舎者の世間知らずめが威張りくさって甚だ面白くない。法神流なぞというのは山猿相手の田舎剣術だ。江戸は将軍家のお膝元。天下の剣客の雲集するところ。気のきいた名人上手が山猿などを相手にするはずはない。その理由をさとらず、井の中の蛙、大言壮語して田舎者をたぶらかすとは憎い奴だ。道場破りを致すから、用意するがよい」
 正月に門弟をひきつれて房吉の道場を訪れ、対抗試合を申し入れたが、さて、やってみると、話にならない。伊之吉の門人は出ると負け、すべて一撃に打ち倒されて、師匠同士の対戦となったが、これも同前、ひとたまりもなかった。
 未熟者は身の程をわきまえない。相手を侮って不覚をとったと考え、日を改めてまた試合を申し込んで、これも惨敗に終ったのである。
「ウーム。残念千万だ。憎ッくい奴は房吉。是が非でも奴めを打ち倒さなくては気がすまないが、オレ一人ではダメらしいから、江戸の大先生に御援助をたのもう」
「それがよろしゅうございます。大先生にたのんで打ち殺してもらいましょう」
 使者がミヤゲ物を山とつんで江戸表へ立ち、山崎孫七郎の出馬を乞うた。
「法神流の房吉か」
「ヘエ、左様で」
「それは容易ならぬ相手だぞ。拙者は試合を致さなかったが、彼に立ち向って勝った者は江戸にはおらぬ」
「それは本当の話で」
「ま。仕方がない。伊之吉の頼みとあれば聞き入れてつかわすが、薗原村に鉄砲はあるか」
「それはもう山中は野良同様に猟が商売ですから、鉄砲はどこの家にもあります」
「それならば安心だ」
 腕のたつ高弟十数名をひきつれて伊之吉のもとに到着した。剣のほかに弓、槍、ナギナタに腕のたつ者を選んでつれてきたのであるが、伊之吉方からは鉄砲に熟練の者十数名を選び集めて合計三十余名、これだけの人数で房吉を討ちとる策をたてた。
 房吉の家を訪れて試合を申しこんだところが、当日房吉は女房同行で湯治にでており、尚当分は帰らないという留守の者の言葉だ。
「どこの温泉だ」
「それが私どもには分りません。先生は山中がわが家同然、今日は東にあるかと思えば明日は西にいるという御方で、しかもこの山中いたるところ温泉だらけですから」
「仕方がない。帰宅次第、伊之吉方へ出頭せしめよ。命にたがうと、斬りこむぞ」
 追貝村の名主久五郎にも、房吉帰宅次第薗原村の伊之吉宅まで出頭せしめよという命令を伝えた。また人を雇って諸方に房吉の行方を探したところ、彼は川場の湯に湯治していることが判ったのである。
 房吉が帰途についたという報をうけたので、一同は小遊峠に待ち伏せた。鉄砲組は物陰に伏せ、門弟十六名と峠の茶店で待ち構えていると、そこへ房吉が女房を同行してやってきた。孫七郎が進みでて、
「その方は房吉だな」
「左様です」
「余は江戸浅草に道場をひらく神道一心流の山崎孫七郎だ。門弟中沢伊之吉が大そう世話になったげな。一手勝負を所望いたす」
「いえ、めっそうな。私は未熟者。どうぞゴカンベン下さいまし」
「江戸表に於ての評判も心得ておる。ただの百姓とは思わぬ。その方の高名を慕って、わざわざ出向いて参った。用意いたせ」
 茶店のオヤジ、これも法神の門弟だ。この山中で茶店をひらくからには、腕もたち、よく落着いた人物で、腰低く進みでて、
「武芸者が勝負を所望するにフシギはございませんが、ごらんのように相手はただいま湯治から帰宅の途中。おまけに女房まで連れております。いろいろ申し残すこともありましょう。後々までの語り草にも、日を定めてやりましたなら、一そうよろしいようで」
「房吉は逃げはすまいな」
「はばかりながら法神大先生の没後、法神流何千の門弟を束ねる房吉先生です。定法通りの申込みをうけた立合いに逃げをうつようでは、第一法神流の名が立ちません。私も法神流の末席を汚す一人、流派の名にかけても、立ち合っていただきます」
 房吉先生も覚悟をきめた。法神先生の眠るこの土地で勝負を所望されて逃げるようでは地下の先生にも申訳が立たない。敵は卑劣な策を弄してまでも勝をあせっている様子、それを承知で立ち合うのも大人げないようではあるが、所詮剣をひいてくれる見込みのない相手のようだ。こういう相手に対しては結着をつける以外に仕方がない。そこで心を定め、
「茶店の主人の申す通り、定法にのっとり、日時を定めての上ならば御所望通り試合に及びましょう。明日はいかがでしょうか」
「しからば明日夜分の八時と定めよう。中沢伊之吉の邸内に於て試合いたそう」
「承知しました」
「そうときまって結構でした。私のような者の言葉をききいれて下さいましたお礼に、皆様に一杯差上げたいと存じますが、房吉先生は一足先におひきとり下さいまし」
 茶店のオヤジの巧みなとりなしで房吉夫婦は無事帰宅することができた。噂はたちまち村々にひろがり、伊之吉方には弓、槍、ナギナタのほかに十数丁の鉄砲まで用意があるということが知れ渡ったから、房吉の親類門弟参集して、
「法神流の名も大切だが、狂犬のようなものを相手に無益に立ち向うこともない。ここは一時身を隠して、彼らの退散を待つ方がよい」
「せっかくですが、今度だけは腹をきめました。何もいって下さるな」
 房吉、強いて事を好むような人物ではなかったのだが、誰しも虫の居どころというものがあって、損得生死にかかわらぬ心をきめてしまえば、これはもう仕方がない。
 剣を真に愛する者は、剣に宇宙を見、またその剣の正しからんことを願うものだ。剣を使う心の正しからんことを願う。我も人もそうあらんことを願わずにいられないものだ。
 上州では諸村に村民が剣を使うけれども、ただ剣技を無二の友とする風が古来から定まっているだけのことで、かりそめにも腕をたのんで事を起すというようなことはこれを厳につつしむ風があり、たまたま出来そこないのバクチ打ちなぞがダンビラをふりまわすだけであった。事を好む輩は容赦なく破門せられる掟がきびしく行われており、村と村とが対立して他流試合に及ぶことなども、親睦の目的のほかには行われない例になっていたのである。
 上州には古くから馬庭念流という高名な流派が行われている。その馬庭は高崎から二、三里の近在で、上州一円に門弟一万と称するほど流行し、土地から生まれた独得の剣として土民に愛されていたものだ。
 その上州に法神流がすごい勢いで流行するようになったから、馬庭の高弟で新井鹿蔵という男、これは自宅が勢多郡で法神流流行のまっただなかに在るものだから、我慢ができなくなった。そこで房吉の道場を訪ねて他流試合を申込み、房吉にしたたか打ち倒されてホウホウのていで戻ったのである。
 これが馬庭の師匠、樋口善治に知れたから、善治は非常に恐縮した。
「きくところによれば深山村の房吉という人は剣技も抜群であるばかりでなく、その人柄も万人の師たる高風があり、里人に厚く慕われている立派な人だそうだ。さればこそ法神流が流行するのだ。自らの至らぬことをタナにあげて人を嫉んではならぬぞ」
 鹿蔵をきびしく戒め、自身房吉を訪ねて門弟の不埒を深謝したことがあった。剣ではこの土地で別格の名門たる念流の当主ですらこのように謙虚な心で剣に仕えている。これが上州の百姓剣というものだ。その太刀はあくまで鋭く、その心はあくまで曇りなきものでなければならなかったものなのだ。
 この土地では剣客の心がこのように謙虚に結ばれているのが例であるのに、伊之吉と山崎孫七郎の無理無法、房吉自身の仕える剣とは余りにも相容れない邪剣邪心、腹にすえかねたから、かかる邪剣の横行を許して剣の聖地を汚してはならぬと房吉は堅く心に決するところがあった。この決意を妻と舅には打ち明かして、
「敵は剣客の名を汚す卑劣漢、弓矢鉄砲を用いても私を討ち果す所存でしょう。私は一死は覚悟いたしております。ただ卑劣漢に一泡ふかせ、弓矢鉄砲も怖れぬ正剣の味を思い知らせてやるだけで満足です。小さな人間一匹がむやみに大きな望みをもつのを私はむしろとりません。剣に神を宿らせたいと願うような大志も結構ではありますが、小さな死処に心魂をうちこむこと、これも人の大切な生き方だろうと思います。好んで死につくわけではありませんが、満足して小さな死処についたつつましいところを地下の法神先生もよろこんで下さるかと思います」
 その決心は磐石のようだ。とうてい房吉の決意をひるがえす見込みはないから、先方をうごかす以外に仕方がない。そこで薗原村の大庄屋惣左衛門にたのんで、伊之吉をうごかすために仲裁の労をたのんだけれども、あくまで心のねじけている伊之吉はてんで耳をかそうとしない。惣左衛門も呆れて、
「私の村からお前さんのような悪者がでては、私はもう世間様に顔向けできない気持だね。そんな奴がのさばるぐらいなら私はさっさと死にたいから、私の首を斬っておくれ」
「そんな薄汚い首と引き換えにこッちの首が落ちては勘定が合わないね。しかし、せっかくの頼みだから、お尻でも斬って進ぜようか」
「なんという失礼な奴だ」
「アッハッハ。剣と剣の勝負、あなた方が余計な口だしは慎しんでいただきたい」
 仲裁の見込みもなかった。

          ★

 天保二年、三月十一日、夜八時。房吉は
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