庭前で試合をすることになり、武蔵が書院から降りようとすると、相手はすでに書院の下に控え、殿様の眼前だからやや伏目に頭を下げて坐っている。見ると、相手は棒使いだ。八尺余の八角棒が彼の前におかれていた。
とっさに武蔵はマトモでは勝味のない敵だと思った。夢想権之助の棒は四尺二寸で円く軽いが、今日の相手のは八尺の八角棒。長短いずれが有利かは立合ってみなければ見当がつかないが、いずれにしてもマトモでは剣はとうてい歯がたたぬ。
みると相手は隙だらけだ、当り前の話だ。まず向い合って一礼し、しかる後ハチマキをしめハカマの股《もも》ダチをとり、武器をとって相対するのが昔の定法であるから、まして殿様の眼前のことだ、相手はあくまで礼儀専一に、つつましく控えて武蔵との挨拶を待っているだけの構えにすぎない。
武蔵はまだ階段を降りきらぬうちに、左の長剣をヌッと突きだして相手の顔をついた。礼も交さず突いてでたから相手がおどろいて棒をとろうとすると、武蔵は左右の二刀を一閃、バタバタと敵の左右の腕をうち、次に頭上から長剣をふり下して倒してしまった。この試合は卑劣だという当然の悪評を得た。
しかしながら、昔の剣法は実戦のために編みだされたもので、いわゆる御前試合流の遊び事ではなかったから、剣の心構えというものも実は甚だしく切迫していたものだ。したがって徳川以降の御前試合剣道とちがって昔の実戦用剣法は各流に残身などと称し、控え室を一歩でて立合の場へ一足はいればもう戦場、どの瞬間にどう打たれても打たれ損という心構えにできており、試合を終って礼を交して後もユダンができない。試合の場を完全に離れ去るまでは寸分の隙なく襲撃にそなえていなければならない心構えの定めがあったものである。婦人の使うナギナタにすらこの心構えのきびしい定めがあったものだ。
法神流はむろんこの心構えが厳格だ。相手にユダンあれば挨拶前でもコツンとやる。房吉にしてみればそれが剣の定め、そのユダン、その不覚ぐらい未熟千万なものはないと思っているから、相手にユダンがあると、まことに人ごとながらもナサケなく、苦々しい気持になって、挨拶前でもコツンとやる。相手が怒って剣をとって打ってかかると、尚さらコツンと今度は念入りに一撃して、不浄の物を片づけたような切ない気持で引ッこんでしまう。相手の身になると、これぐらいシャクにさわることはない。さればといって、卑怯者といきりたち、今度は要心専一に立向ってみても、尚さら手もなく倒されるばかりで、どうにもならない。
噂をきいて、江戸の剣客という剣客、腕に覚えの連中はあらかた他流試合に乗りこんだが、一人としてよい勝負になった者がない。格段の差、順々にゴミのように打ち捨てられてしまったのである。師の法神はこの結果に満足し、房吉を江戸において帰村した。
房吉は木挽町と赤坂二ツの道場を掛け持ちし、主として御家人はじめ多くの門弟をとって非常に繁昌したが、ある夏の晩、帰宅の途中、不意に暴漢に襲われた。敵は十四、五人であった。何者とも分らないが、剣の遺恨であるに相違ない。名人房吉と知って斬りかかった一団だから、いずれも腕はたつ。暗夜に房吉をかこんで一時にジリジリと迫った。
房吉は自然に両刀を握っていた。臨機応変は法神流の持ち前だ。彼の身体が一閃して動きだした瞬間から、その動きは彼自身にも予測のできないものであった。敵の動きに応じる変化があるだけなのだ。走った。斬った。逃げた。斬った。敵の大部分が負傷して追う者がなくなったので、房吉は難なくわが家へ帰ってきた。彼自身は一太刀も傷をうけていなかった。
留守をまもっていた儀八と太助は彼が村から連れてきた高弟で、師範代であった。
「何者がどういう遺恨で斬りかかったのであろうかなア」
「それは先生が御存知ないだけで、当然こんなことがあるだろうと世間では噂していたほどですよ。江戸の剣術使いは負けた恨みでみんなが先生に一太刀ずつ浴びせたがっているそうですよ」
「それは物騒だな。江戸というところも案外なところだ。教えを乞うほどの大先生がいるかと思ったに、まるでもう子供のような剣術使いばかりでアキアキした。その上恨まれては話にならない。オレはもう村へ帰ろうと思う」
「そうなさいまし。江戸のお弟子はダラシのないのばかりだから、私たち二人でけっこう務まりますから」
「その通りだ。江戸の剣術師範ならお前らで充分だな。それではよろしく頼むぞ」
あとを儀八と太助にまかせて、房吉は山へ戻った。そして追貝の海蔵寺と平川村の明覚院に道場を構え、星野作左衛門の娘をめとって定住した。
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薗原村の庄屋に中沢伊之吉という剣術使いがあった。この山中では名代の富豪であるが、若い時に江戸へでて、浅草田原町に道場をひらく神道一心流の剣客山崎
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