がない。下の話で恐縮だが、男の例の一物は随意に動くものではない。ところが彼はこれすらも随意に収縮することができた。これを小さくおさめて敵の攻撃を防ぐことができた。武技だけでは、こうはいかぬ。意馬心猿の境地ではおのずから裏切られてしまう性質のものであるから、つまり彼は剣聖の境に達したのである。法神はこれを見てことごとく賞讃し、秘訣の全てを伝えて跡目に立て、加賀之助の名を与えた。後に星野家へ養子となったから、星野加賀之助とよぶわけだが、一般に昔のまま須田房吉で通っている。村人にとっては、その方が親しみがあるのだ。
 この山中に知行所をもつ旗本の代理で毎年知行を取り立てにくる男に犬坂伴五郎という御家人があった。貧乏御家人だが剣では名のある使い手であった。ちかごろ江戸では田舎侍に腕の立つゴロツキが多くなって、吉原なぞでもとかく旗本は気勢があがらない。田舎侍に一泡吹かせてやりたいものだとかねて思っていたが、この伴五郎が房吉に目をつけた。とにかく滅法強い。法神流はそもそも剣の使い方が根本的に他流とちがっている。身体全体が剣であり武器である。場合によっては頭でも突く、足でも蹴るで変幻自在、機にのぞみ変に応じてきわまるところがない。したがってその練習量は他流の何倍何十倍とかけられているから、こころみに伴五郎が立合ってみると、房吉一門では下ッパの方の門人に手もなくひねられてしまった。
 伴五郎も江戸では剣で名のある男だ。それがこの有様であるから、房吉を江戸へつれて行けば、どこの大道場の大将だって相手にならないことは明らかだ。しかし、房吉はその師に似て至って物静かな人物で、かりそめにも道場破りを面白がるようなガサツ者ではないのであるから、伴五郎の思うように田舎侍をぶん殴ってくれる見込みはないが、江戸へ連れだしさえすれば、そこにはまた手段もある。とにかく、なんとかして江戸へひッぱりだそうと考え、同志をつのって師匠の法神の方を訪れた。
「我々江戸表に於ては多少は剣客の名を得た者でござるが、法神流にはことごとく恐れ入り申した。特に大先生ならびに師範代の房吉先生の御二方は人か鬼かまた神か、まことにただ神業と申すほかはない。房吉先生を江戸へお招きして旗本一同教えを乞いたいとの念願でござるが、若先生を暫時拝借ねがいたい」
 法神も江戸へでるのは一興と思った。そこには諸国の名手が集まっているから、房吉に見学もさせたい。
「よろしかろう。拙者もついでに江戸へでて一服いたすことにしよう」
「大先生まで。ヤ、これは、ありがたい」
 御家人の悪太郎ども、大いによろこんだ。諸方にゲキをとばし無心を吹っかけ、金をあつめて、江戸木挽町と赤坂の二ヵ所に道場をつくった。そして、法神と房吉をまねいたのである。

          ★

 二人が江戸へでてみると、まことに立派な道場だが「天下無敵法神流」という大そうな看板がでているから、さすが物におどろかぬ山男も辟易して、
「天下無敵は余計物だ。とりなさい」
「その儀ばかりは相成り申さぬ。天下の旗本が習う剣術だから、天下無敵。この江戸に限ってただの法神流では旗本の顔がつぶれるから、まげて我慢ねがいたい」
 大ザッパな山男のことだから、こういわれると、こだわらない。なるほど江戸はそういうところかと至極アッサリ呑みこんでしまった。
 御家人の悪太郎ども、この大看板をかかげておいて尾ヒレをつけて吹聴したから、腕に覚えの連中が腹をたてた。毎日のように五人十人と他流試合につめかける。相手になる房吉は、事情を知らないから、さすがに江戸の剣客は研究熱心、勉強のハリアイがあると大いに喜んで、毎日せっせとぶん殴っては追い返す。
 むかし、宮本武蔵は松平出雲守に招かれ、その家中随一の使い手と立合ったことがあった。松平出雲は彼自身柳生流の使い手だったから、その家中には、武芸者が多かったし、また剣の苦手は何かということを彼自身よく心得ていた。彼は武蔵の相手として、棒の使い手を選んだのである。
 棒、もしくは杖というものは甚だしく有利な武器なのである。これは実際にその術の妙を目にしないとその怖るべき性質が充分には呑みこめない性質のものであるが、棒はその両端がいずれも相手を倒す武器であり、いずれが前、いずれが後という区別がない。いずれからともなく現われて打ちかかり、一点を見つめていると逆の一点が思わぬところから襲いかかってくるのである。打つばかりでなく、突いてくる、払ってくる、次にどの方向からどこを目がけて飛びだしてくるか見当がつきかねるという難物で、これを相手とする者は敵が百本の手に百本の棒をふりまわしているような錯覚を感じる。武蔵も夢想権之助の棒には手を焼き、一般にこれを相打ちと称されているが、実際には武蔵が一生に一度の負けをとっている事実があるのだ。

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