ましょう。明日はいかがでしょうか」
「しからば明日夜分の八時と定めよう。中沢伊之吉の邸内に於て試合いたそう」
「承知しました」
「そうときまって結構でした。私のような者の言葉をききいれて下さいましたお礼に、皆様に一杯差上げたいと存じますが、房吉先生は一足先におひきとり下さいまし」
茶店のオヤジの巧みなとりなしで房吉夫婦は無事帰宅することができた。噂はたちまち村々にひろがり、伊之吉方には弓、槍、ナギナタのほかに十数丁の鉄砲まで用意があるということが知れ渡ったから、房吉の親類門弟参集して、
「法神流の名も大切だが、狂犬のようなものを相手に無益に立ち向うこともない。ここは一時身を隠して、彼らの退散を待つ方がよい」
「せっかくですが、今度だけは腹をきめました。何もいって下さるな」
房吉、強いて事を好むような人物ではなかったのだが、誰しも虫の居どころというものがあって、損得生死にかかわらぬ心をきめてしまえば、これはもう仕方がない。
剣を真に愛する者は、剣に宇宙を見、またその剣の正しからんことを願うものだ。剣を使う心の正しからんことを願う。我も人もそうあらんことを願わずにいられないものだ。
上州では諸村に村民が剣を使うけれども、ただ剣技を無二の友とする風が古来から定まっているだけのことで、かりそめにも腕をたのんで事を起すというようなことはこれを厳につつしむ風があり、たまたま出来そこないのバクチ打ちなぞがダンビラをふりまわすだけであった。事を好む輩は容赦なく破門せられる掟がきびしく行われており、村と村とが対立して他流試合に及ぶことなども、親睦の目的のほかには行われない例になっていたのである。
上州には古くから馬庭念流という高名な流派が行われている。その馬庭は高崎から二、三里の近在で、上州一円に門弟一万と称するほど流行し、土地から生まれた独得の剣として土民に愛されていたものだ。
その上州に法神流がすごい勢いで流行するようになったから、馬庭の高弟で新井鹿蔵という男、これは自宅が勢多郡で法神流流行のまっただなかに在るものだから、我慢ができなくなった。そこで房吉の道場を訪ねて他流試合を申込み、房吉にしたたか打ち倒されてホウホウのていで戻ったのである。
これが馬庭の師匠、樋口善治に知れたから、善治は非常に恐縮した。
「きくところによれば深山村の房吉という人は剣技も抜群であるばかりでなく、その人柄も万人の師たる高風があり、里人に厚く慕われている立派な人だそうだ。さればこそ法神流が流行するのだ。自らの至らぬことをタナにあげて人を嫉んではならぬぞ」
鹿蔵をきびしく戒め、自身房吉を訪ねて門弟の不埒を深謝したことがあった。剣ではこの土地で別格の名門たる念流の当主ですらこのように謙虚な心で剣に仕えている。これが上州の百姓剣というものだ。その太刀はあくまで鋭く、その心はあくまで曇りなきものでなければならなかったものなのだ。
この土地では剣客の心がこのように謙虚に結ばれているのが例であるのに、伊之吉と山崎孫七郎の無理無法、房吉自身の仕える剣とは余りにも相容れない邪剣邪心、腹にすえかねたから、かかる邪剣の横行を許して剣の聖地を汚してはならぬと房吉は堅く心に決するところがあった。この決意を妻と舅には打ち明かして、
「敵は剣客の名を汚す卑劣漢、弓矢鉄砲を用いても私を討ち果す所存でしょう。私は一死は覚悟いたしております。ただ卑劣漢に一泡ふかせ、弓矢鉄砲も怖れぬ正剣の味を思い知らせてやるだけで満足です。小さな人間一匹がむやみに大きな望みをもつのを私はむしろとりません。剣に神を宿らせたいと願うような大志も結構ではありますが、小さな死処に心魂をうちこむこと、これも人の大切な生き方だろうと思います。好んで死につくわけではありませんが、満足して小さな死処についたつつましいところを地下の法神先生もよろこんで下さるかと思います」
その決心は磐石のようだ。とうてい房吉の決意をひるがえす見込みはないから、先方をうごかす以外に仕方がない。そこで薗原村の大庄屋惣左衛門にたのんで、伊之吉をうごかすために仲裁の労をたのんだけれども、あくまで心のねじけている伊之吉はてんで耳をかそうとしない。惣左衛門も呆れて、
「私の村からお前さんのような悪者がでては、私はもう世間様に顔向けできない気持だね。そんな奴がのさばるぐらいなら私はさっさと死にたいから、私の首を斬っておくれ」
「そんな薄汚い首と引き換えにこッちの首が落ちては勘定が合わないね。しかし、せっかくの頼みだから、お尻でも斬って進ぜようか」
「なんという失礼な奴だ」
「アッハッハ。剣と剣の勝負、あなた方が余計な口だしは慎しんでいただきたい」
仲裁の見込みもなかった。
★
天保二年、三月十一日、夜八時。房吉は
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