ついで天下をといふ野望はなかつた。たまたま信長が横死して自然に道がひらかれたから天下を狙つて動きだしたにすぎなかつた。彼もいはば温和な野心家、節度のある夢想児であつたのだ。家康も温和な人だ。けれどもいつの日かその眼前に天下に通じる道が自然にひらかれたとき、そのときを思ふと家康といふ人は怖しい。いつたん道がひらかれた時、そのかみの彼自身が俄に天下をめざす獰猛な野心鬼に変じた如く、家康も亦いのちを張つて天下か死かテコでも動かぬ野心鬼となる怖れがある。さういふ怖れをいだくのも、家康自体にその危さが横溢してゐるためよりも、時代の人気があまり家康に有利でありすぎたせゐだつた。信長の下の秀吉などは凡そ世評はただ有能な家来の一人といふだけのこと、柴田も丹羽も同じことで、信長と肩を並べるぐらゐに副将軍などと言はれるやうな人物はゐなかつたものだ。そこで秀吉は家康の温和さを疑ることはなかつたが、世評の高さのために彼の心中ひそかに圧迫せられるものを堆積するやうになつてゐた。それも彼が気力旺盛のころは、別に家康を怖れるといふほどでもなかつたのだ。
 家康は子供の時から親を離れて人質ぐらし、他人の飯をくひながら育つた人である。彼の生家は東海道の小豪族で、今川と織田にはさまれ、一本立の自衛ができず、強国にたよつて生きる以外に術がない。家康の父広忠は今川にたより家康を人質として送つたが、今川の手にとどく前に織田の手に奪はれてしまつた。このとき家康は六ツであつた。
 織田信秀(信長の父)は家康を奪つたから広忠に使者をたて、今川との同盟を破つて自分の一味につくやうに、さもないと子供を殺すと言はせたが、広忠は屈せず、子供の命は勝手にするがいい、同盟はすてられない、とキッパリ返答した。信秀はせつかくの計も失敗したが別段家康を殺しもせず、むしろ鄭重に養つてやつたといふことで、二年間織田のもとに養はれてゐた。八ツの年に信秀が死に、これにつけこんで今川勢は織田を攻めて、家康は助けだされたが、このとき父広忠はすでに死んでゐた。改めて今川の人質となつてお寺住ひ、坊主から教育を受けて十五まで他人の飯をくつて育つたのである。
 八ツの年に、人質にでてゐる間に父を失つたのであるから、家康には父の記憶がなかつた。広忠は二十四の若さで死んだが、聡明な人だが病弱で神経質で短慮であつたといふ。家康にとつて父の記憶といへば父の風貌面影に就ては殆ど何も残つてゐない。ただ、今川へ人質に送られる途中、織田家の者に奪ひとられ、その彼自身を種にして織田から徳川へ一味をせまつたとき、子供ぐらゐ勝手にするがいいさ、同盟は破られぬ、とキッパリ答へてきたといふ父、これぐらゐハッキリと記憶に残つてゐる父はないのである。殺されるべき六歳の家康は殺されもせず、むしろ鄭重に育てられた。それは今川家に於けるお寺暮しの八年間よりもむしろもてなされ、いたはられたほどで、したがつて家康の織田に対する記憶は元来悪くない。しかしながら、幼少年期の数奇な運命を規定した一つの原理、原理といふ言葉は異様な用法に見えるかも知れないけれども、幼少の家康にとつて、それは恰《あたか》も原理の如きものであつたと思はれる。なぜなら少年にとつては最も強烈な印象、強烈な信仰が原理なのであり、それは家康にとつて最も強烈な印象であり信仰に外ならなかつたからである。
 その原理とは、父は自分をすてても同盟に忠実であつた、といふ正義である。家康はその正義を信仰し、その父を心中ひそかに英雄化してはぐくんだ。父は自分をすてたにも拘らず、自分はむしろ織田の厚遇を受けた、そのことすらも父の正義の当然の報酬の如く感じた、或ひは感じたがらうとした。かうして彼の環境をつらぬく原理が、やがて彼自身の偶像たる独自な英雄像を育てあげたので、彼が後年信長との二十余年の同盟に忠実であつた当代異例の独自の個性がかうして生れつつあつたのである。
 彼の父が彼を棄てた如く、家康も亦自分の子供を人質にだし、煮られやうと焼かれやうと平気であつた。家康を人質にだして勝手に殺すがいいさとうそぶいた広忠のまことの心事はどうであつたか、これをたづねるよしもないが、わが子わが孫を人質にだした家康の場合は冷然たるもので、子供や孫ぐらゐ、彼は平然たるものであつた。従つて、彼は秀吉が小牧山の合戦のあとで母を人質によこしたり妹を嫁にくれたりして上洛をうながしたときにも、母や妹の人質などといふことにはなんの感動もなかつたので、ただ時の勢ひといふものに冷静に耳をすまし目を定めてゐただけのことであつた。
 一般に野心家といふものはわが子の一人や二人犠牲にしても野心のためには平然たるもののやうに見えるけれども、案外野心家には肉親的な感情の強い人が多いもので、祖先とか家といふものと同化した動物のやうな保守家の方が却つて肉親的に不感症で、家のためには子供の一人や二人煮られようと焼かれようとと本能的なつめたさを持つてゐるものなのである。家名のためだなどと云つて我が子を冷酷に追ひだしたり、中には肺病の子供を家名のために早く死んでくれと願つたりする、さういふ冷酷な特異性がもはや特に鋭く訴へてこないほど我々の身辺には家名の虫のつめたさが横溢してゐるのだ。その御当人が自分のつめたさに気附かずに、甘つたるい家庭小説か何かに涙を流してゐるのだから笑はせる。人は涙といふものを何かマジメに考へがちだが、笑ひの裏と表にすぎないので、笑ひが単なる風とその音にすぎなければ、涙などは愚かしい水にすぎない。妙に深刻に思はれるだけむしろバカげたものである。
 家康も保守家であつた。そして彼は子供だの孫だのの二人三人はどうならうと平気の平左の人であつた。律義者で、温和な考への人だ。そして、自分に致命傷の危険がなければ人が何をしようと、どんなに威張らうと、朝鮮へ遠征しようと、親類の小田原を亡ぼさうと、我関せずでゐる人だ。時世時節なら何事も仕方がないといふ考へで、秀吉の幕下に参じて関白太閤などと拝賀することぐらゐ蠅が頭にとまつたほどにしか考へてゐない。
 このままいつ死んでもそれでよし、さういふ肚の非常にハッキリした家康で、さういふ太々《ふてぶて》しい処世の骨があつたから、野心家のやうにあくせくしないが、底の知れないやうなところがある。それで古狸などと思はれるが、根は律儀で、ただいつ死んでもいいといふ度胸の生みだした怪物的な影がにじんでゐるだけである。
 いつ死んでもいいといふ最後の度胸はすわつてゐたが、平常の家康はお人好しで、小心な男であつた。彼は五十ぐらゐの年配になつても、まだ、たとへば近臣が何かの変事を告げ知らせると、忽ち顔色青ざめて暫く物が言へなくなるたちであつたといふ。秀吉の死後、三成一派が家康を夜襲するといふ噂の時にも彼は顔色を変へてしまつたといふことで、いい年配になつてもさういふ素直な人だ。素直といふ意味は、たとへば我々のやうな凡人でも、四十五十になれば事に処して顔色を変へないぐらゐの稽古はできる。我々は内心ビクついてをりながら顔色だけはゴマかすぐらゐの習練はできるのである。それは形の上の習練で内容的には一向に習練されてはゐないのだが、家康といふ人は、つまりさういふ虚勢の、上ッ面だけのお上手が下手であつた証拠だ。彼は顔色を変へしばしは声もでなくなるぐらゐ顛倒するが、やがて考へ、そして考へ終ると度胸をきめる。さうするとテコでも動かない度胸の男になるので、負けると分つた信玄との一戦にも断々乎として出陣する、秀吉と小牧山で戦ひ、さうかと思へばアッサリ上洛し拝賀もする。彼の家来の目には薄氷を踏むやうな危険にみちた道を、主たる彼のみが常に自信をもつて踏み渡つてゐた。その自信とは、ままよ、死んでもいいや、といふことだ。彼は命をはる人であつた。そのくせ彼は命をはつて天下を望んでゐたわけではない。命をはつて、ただ現在の生存を完《まつと》うしてゐたといふだけのことなのである。
 秀吉が死ぬ。すると家康が意志するよりも、世間の方が先に意志し、彼は世間の意志に押されて自分自身を発見し、意志するやうな有様だつた。加藤清正などといふ秀吉子飼ひの荒武者まで三成を憎むのあまり家康支持に傾くといふのだから家康とても思ひの外であつたらう。福島正則の如きまで禁を承知で家康と婚を結ばうとする、いはんや黒田如水などはわざわざ九州から出ばつてきて家康を護衛する、名目は三成の天下の野望を封ずるためとあるのだが、それはうはべだけのことで内実は家康の天下を見越してすこしも先に忠勤を見せようといふさもしい心掛けだ。
 前田利家が死んだ夜、黒田、浅野、加藤などといふ朝鮮以来三成に遺恨を含む連中が三成を襲撃しようとした。三成は女の籠に乗つて浮田の邸へ逃げこんだが、更に家康の邸へ逃げこんできた。追跡してきた面々が騒いでゐるのを家康が玄関へ出て行つて、諸君の顔も立つやうにする、三成は政界から引退させるから助命させてやつてくれと頼んで引きとらせた。その夜更けに本多正信が家康の寝所へでかけて行つて、三成のことはどうお考へで、と尋ねると、家康は、アア今それを考へてゐるところだ、左様ですか、お考へ中となら別に申上げることもありますまい、と引下つてきたといふ。正信の考へでは三成を生かしておけば今に徒党を結んで反乱を起す。なまじひに今殺してしまふと、反家康党の反乱といふ一とまとめに敵を平げる火口を失ふことになるから、ここは生かしておいて反乱を起させる方がよいといふ考へ、それを家康に上申するつもりであつたが、家康が思案中だといふから、家康の思案なら自分の考へと同じところへ落ちる筈だと呑みこみよろしく引下つたのだといふ。こんな話は無論後世の作り話で、家康一代の浮沈を決する大問題を禅問答の要領で呑みこんでくるなどといふバカげた筈があるべきものではない。特に家康正信はしつこいほど慎重なたちで、かりそめにもかかる軽率なやりとりですませるやうな人柄ではなかつたのである。
 然し三成をかくまひ、翌朝は護衛までつけて佐和山へ送つてやつた家康の肚は、三成を生かしておけばやがて反乱のあげく三成党を一挙に亡しうるといふ、家康がその肚であるばかりでなく、三成がその肚を見抜きここへ逃げれば必ず助けられると見越して逃げこんだのだといふ。両々ゆづらず、神謀鬼策、蛇の道は蛇、火花をちらす両雄の腹芸といふところだが、話が出来すぎてゐるやうだ。
 家康は温和な人だといふ秀吉の口癖は見る人には共通の真実であり、三成もそれを知つてゐたのだと思ふ。家康とてもこの微妙な時代に先の見透しなどがあるべき筈はない。結果に於て関ヶ原で勝つてゐるから、まるでそれを見越した上での芸当だつたと片づけてゐるのだが、関ヶ原は一大苦戦で、秀秋の裏切りまでは、家康はすでに自らの敗北を信じてゐた。彼は無我夢中で爪を噛んで、小倅めにだまされたか、口惜しや口惜しやと歯がみをしてゐたといふ。彼は不利の境地に立つと夢中で爪を噛む癖があつたさうで、小倅めといふのは金吾中納言秀秋のことだ。この小倅は元来秀吉の甥で、秀吉の養子となつて育つたのだが、黒田如水らのとりもちで小早川隆景の養子となつた。朝鮮役では秀吉の名代格で黒田如水を参謀に出陣したが生来の暗愚で、朝鮮の戦争でも失策をやり秀吉の怒りにふれて筑前七十余万石から越前十五万石へ移封を命ぜられたのである。ところがまだ越前へ移らぬうちに秀吉が死に代つて政務を見るやうになつた家康のはからひで移封は有耶無耶《うやむや》に立消えてしまつた。如水とは深い関係があり家康には恩義があるから、関ヶ原へ出陣のため九州を立つ時から如水のすすめで裏切りの約束を結んでゐた。この裏切りがなければ、まさしく家康は爪を噛み噛み関ヶ原の露と消えてゐたのであつた。
 三成は四面楚歌であるとはいへその背後には豊臣家があり、家康の党類は多いと云つても、その中のある者は反三成の故に家康に結ぶだけで、豊臣徳川となればハッキリ豊臣につく連中だつた。さういふ微妙な関係にあつて、三成にことさら反乱を起させてまとめて平げやうなどといふ利いた風な細工が自信満々でつちあげら
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング