家康
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)兼実《かねざね》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)九条|兼実《かねざね》
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 徳川家康は狸オヤヂと相場がきまつてゐる。関ヶ原から大坂の陣まで豊臣家を亡すための小細工、嫁をいぢめる姑婆アもよくよく不埒な大狸でないとかほど見えすいた無理難題の言ひがかりはつけないもので、神君だの権現様だの東照公だのと言ひはやす裏側で民衆の口は狸オヤヂといふ。手口が狸婆アの親類筋であるからで、民衆のかういふ勘はたしかなものだ。
 けれども家康が三河生来の狸かといふと、さうは言へない。晩年の家康は誰の目にも大狸で、それまで家康は化けてゐたといふのだが、五十何年も化けおほせてゐた大狸なら最後の仕上げももうすこしスッキリとあかぬけてゐさうなものだ。関ヶ原から大坂の役まで十年以上の時日があり、その間家康はすでに天下の実権を握つてをり、諸侯の動きもほぼ家康に傾いてゐて、彼が大狸ならもつとスッキリやれた筈だ。十年余の長い時間がありながら彼のやり方は如何にも露骨で不手際で、まつたく初犯の手口であり、犯罪の常習者、あるひは生来の犯罪者の手口ではなかつたのである。
 十三の年に伊豆へ流されてそれから三十年、中年に至るまで一介の流人で、田舎豪族の娘へ恋文でもつけるほかに先の希望もなかつた頼朝だが、挙兵以来の手腕は水際立つたもので、自分は鎌倉の地を動かず専ら人を手先に戦争をやる、兵隊の失敗、文化人との摩擦など遠く離れて眺めてゐて、自分の直接の責任にならないばかりか、改めて己れの命令によつて修正したり禁令したり、失敗まで利用してゐる。かうして一度も京都へ行かないうちに天下の権が京都から鎌倉へ自然に流れてくるやうな巧みな工作を施したものだ。
 もつとも頼朝の場合は京都を尊敬するといふ形式を売つて実権を買つたので大義名分があり、京都の方に敵もあつたが味方も多い。藤原一門の対立の如きものもあり、九条|兼実《かねざね》の如く頼朝から関白氏の長者を貰つて、頼朝に天下の実権を引渡すやうな、いつの世にも絶えまのないエゴイストの存在が巧みに利用せられてゐるのである。
 家康の場合は先づ根本が違つてゐて、豊臣徳川は同一線上に並立するものであり、朝廷と武家といふぐあひに虚名を与へて実をとるといふことができない。亡ぼすか、さもなければ四五十万石を与へて自分の家来にするか、どつちみちその一方が名も実権も共にとらざるを得なかつた。彼は征夷大将軍を称し頼朝の後裔たることを看板にしたが、幕府の経営方針などにも多分に頼朝を学んだ跡があり、義経だ行家だとバッタバッタ近親功臣を殺してまで波立つ元を絶つていつた血なまぐさいやり口まで頼朝に習つた感がある。昔はさうでなかつたのだが初犯以来は別人で、だんだん慾がでてきたのである。豊臣家乗取りの方策などでも出来れば頼朝の故智を習つて綺麗にやりたかつたであらうが、何と云つても両家対立の事情と朝廷武家対立の事情とは根本が違ふので綺麗ごとといふわけに行かない。元来が保守的な性癖で事を好まぬ家康で、狸どころか番犬のやうな気の良いところもあるのだが、ええママヨとふてくされて齧りつくと忽ち狂犬の如くになつたので、アラレもなくエゲツないやり口が寧ろ家康の初々しさを表してゐると見てもよい。
 信長が横死する。いちはやく秀吉が光秀を退治して天下は秀吉のものとなつたが、同時に世人は家康を目して天下の副将軍といふやうになつた。小牧山で戦闘の上では秀吉をたたきつけてゐることが評価せられた意味もあるし、信長とは旧来の同盟国の家柄で成上りの秀吉とは違ふといふやうなその不遇に対する同情もあつた。然し、家柄への同情といつても本人に貫禄がなければ仕方がないので、織田信雄が信長の子供だと云つても実力がなければ仕方がない。万事実力が物を言ふ戦国時代であつた。
 ところが実力といつても各人各様で、人物評価の規準といふものは時代により流行によつて変化する。陰謀政治家が崇拝せられる時期もあれば平凡な常識円満な事務家の手腕が謳歌せられる時期もある。家康がおのづから天下の副将軍などと許されるやうになつたのは、たまたま時代思潮が彼の如き性格をもとめるやうになつたので、彼は策を施さず、居ながらにして時代が彼を祭りあげて行つた。
 当時の時代思潮は何かといへば、つまり平和を愛し一身の安穏和楽をもとめるやうになつたといふことだ。一般庶民が平和を愛するのはいつの世も変りはないが、槍一筋で立身出世をし、戦争を飯よりも愛した連中が戦争に疲れてきた。
 日本の戦争は武士道の戦争だなどと考へると大きな間違ひで、日本の戦史は権謀術数の戦史である。同盟だの神明に誓つた血判などと紙の上の約束が三文の値打もなく踏みにじられ、昨日の味方は今日の敵、さうかと思ふと昨日の敵は今日の味方で、共通する利害をめぐつてただ無限の如く離合する。一身の利害のためには主を売り友を売り妻子を売り、掠奪暴行、盗賊野武士から身を起して天下を望むのが自然であるから時代の道徳も良識もその線に沿うてゐるのは自然である。
 親類縁者といへども信用できず、又、信用してをらず、常時八方に間者を派し、秘密外交、術策、陰謀は日常茶飯事だ。ルールといふものはなく、ルールといふものがありとすれば、力量や器量にまかせて何をやつてでも勝てば良い、勝つた者に全ての正義があるといふルールなのである。力量に自信ある者、野心家、夢想児にとつて、力づくの人生は面白い遊戯場だ。ところが力にも限度があつて、昨日の大関、関脇などが幕下へ落ち遂には三段目へ落ちて引退するといふやうなことにもなり、限度は力業《ちからわざ》には限らない。智力にも限度があり年齢があるものだ。気力とてもさうである。
 芸術の仕事はそれ自体がいはば常に戦場で、本来各人の力量が全部であるべきものである。力量次第どんな新手をあみだしても良く、むしろ人の気附かぬ新手をあみだすところに身上があり、それが芸術の生命で、芸術家の一生は常に発展創造の歴史でなければならないものだ。けれども終生芸に捧げ殉ずるといふやうな激しい精進は得難いもので、ツボとかコツを心得てそれで一応の評価や声名が得られると、そのツボで小ジンマリと安易な仕事をすることになれてより高きものへよぢ登る心掛けを失つてしまふ。別段間者がゐるわけでもなく寝首をかかれるわけでもなく生命の不安があるわけでもない芸術の世界ですらさうなので、自由の天地へつきはなされ、昨日の作品よりは今日の作品がより良くより高く、明日の作品は更に今日よりもより高く、と汝の力量手腕を存分にふるへと許されると始めは面白いやつてみようといふ気でゐても次第に自分の手腕力量の限度も分つてきて、いざ自分がやるとなると人の仕事を横から批評して高く止つてゐたやうには行かないことが分つてくる。それで始めの鼻息はどこへやら、今度は人のつまらぬ仕事までほめたりおだてたりするのは、自分の仕事もそのへんで甘く見逃して貰ひたいといふ意味だ。
 本当に自由を許されてみると、自由ほどもてあつかひにヤッカイなものはなくなる。芸術は自由の花園であるが、本当にこの自由を享受し存分に腕をふるひ得る者は稀な天才ばかり、秀才だの半分天才などといふものはもう無限の自由の怖しさに堪へかねて一定の標準のやうなもので束縛される安逸を欲するやうになるのである。
 戦国時代の権謀術数といふものはこれ又自由の天地で、力量次第といふのであるが、かうなると小者は息がつづかない。薬屋の息子だの野武士だの桶屋の倅《せがれ》から身を起して国持ちの大名になつたが、なんとかこのへんで天下泰平、寝首を掻かれる心配なしに、親から子へ身代を渡し、よその者だの自分の番頭に乗ッ取られるやうな気風をなくしたいといふことを考へるやうになつた。
 信長が天下統一らしき形態をととのへ得たころから諸侯の気持はだいたい権謀術数の荒ッポイ生活に疲れて、秩序にしばられ君臣の分をハッキリさせて偉くもならぬ代りに落ぶれも殺されもしない方がいいと思ふやうになつてきた。秀吉の朝鮮征伐に至つて諸侯の戦争を厭ふ気持はもうハッキリした。そこでそれまでは松永弾正だの明智光秀のやうな生き方がまだ通用してゐたのだが、その頃からはかういふ陰謀政治家やクーデタ派は一向に尊重せられない気風となり、諸侯は別に相談したわけでもなく家康を副将軍と祭り上げ、それにつづく人物は前田利家だときまつてしまつた。これが三十年前、信長青年頃の世相であつたら家康だの利家が人物などと言はれる筈はない。黒田如水とか島左近などといふのがむしろ人物と言はれたであらう。
 家康の出処進退といふものは戦国時代には異例であつた。彼は信長と同盟二十年間、ついぞ同盟を破らなかつた。同盟を破らないのは当り前ぢやないか、と今日は誰しも思ふであらうが、当時は凡そ同盟をまもるといふことが行はれてをらぬので、利害得失のために同盟を破るのが普通であり、損を承知で同盟をまもり義をまもるなどとは愚かであり、笑ふべきことであり、決して美談だとは考へられてをらなかつた。家康はその愚かにして笑ふべきことを二十年間まもりつづけ、信長の乞ひに応じて勝つ筈のない信玄相手の戦争もやる。この戦争のときは家来が全部反対で、絶対に勝ちみがないのだから同盟の約を破つて信玄に降伏する方がいいと主張したものだ。戦争を主張し同盟を守ることを固執した唯一の人物が家康であつた。そして予想せられた如く完膚なく敗北し、家康は血にそまつて、ともかく城へ逃げ帰ることができたのである。さうかと思ふと姉川の戦には乞ひにまかせて取る物もとりあへず駈けつける。金ヶ崎で退却となり、退却の殿《しんが》りのいのちがけの貧乏|籤《くじ》を木下藤吉郎と二人で引受ける。家康はかういふ気風の人で、打算をぬきに義をまもるといふ異例の愚かしいことをやり通した。
 前田利家といふ人は、秀吉が木下藤吉郎といふ足軽時代からの親友で、その頃から女房をとりもつたりとりもたれたりの間柄。ともども出世して友情に変りはないが、同時に正義のためには友情とても容赦はしないといふのが利家で、彼は正義派だ。その正義とは義であり忠であり、これ又秘密外交陰謀政治の当時には異例で、秀吉の天下になつてのちは豊臣家といふものを日本の中心と心得、自分の天下といふやうな野心はもたない。
 かういふ御両人であるから信長以前の戦国乱世では大人物どころか三流四流の小者であり、大馬鹿野郎の律義者で笑はれてもほめられることはない筈だが、天下の気風が変つてきたから、自然に諸侯の許す大人物となつた。芸術の仕事は書き残しておけば他日認められて正当の評価を受けることも有りうるけれども、政治家などは現実に機会にめぐり合はなければそれまでで、家康や利家ぐらゐの人物はいつの時代にもゐたであらうが、ちやうど時代に相応する、機会にあふといふことで力量手腕を全的に発揮して歴史に名を残すこととなる。力量手腕を存分に発揮する機会を得れば十人並以上の人なら相当のことは誰でもやれる。時代の支持があるかどうか、といふことが問題で、家康の場合は時代の方が先に買ひ被《かぶ》つてでてきた。家康は十人並よりはよつぽど偉い人で、公平に判断しても当代随一の人傑であつたが、時代が先についてきたのでむしろ時代に押されて自分自身を発見して行つたやうなお人好しで鈍感でお目出度いところのある人であつた。
 家康が副将軍だなどと言はれて大変な人望があるものだから、秀吉の側近の連中は家康の変に鄭重慇懃な律義ぶりを信用せず、三河の古狸には用心しなければといふやうな疑心をいだいてそれとなく秀吉にほのめかす。そのたびに秀吉は、家康といふ人は案外あれだけの人で、温和な人だ、と言ひきかせてゐた。家康は温和な人だといふ評言は秀吉の家康についての極り文句のやうであつた。秀吉は知つてゐたのである。然し、怖れてゐた。秀吉自身、彼は今こそ天下者であつたが、信長の家来のころは天下などは考へない。彼の野心の限界は信長第一の家来といふことで、その信長のあとを
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