は生来の犯罪者の手口ではなかつたのである。
十三の年に伊豆へ流されてそれから三十年、中年に至るまで一介の流人で、田舎豪族の娘へ恋文でもつけるほかに先の希望もなかつた頼朝だが、挙兵以来の手腕は水際立つたもので、自分は鎌倉の地を動かず専ら人を手先に戦争をやる、兵隊の失敗、文化人との摩擦など遠く離れて眺めてゐて、自分の直接の責任にならないばかりか、改めて己れの命令によつて修正したり禁令したり、失敗まで利用してゐる。かうして一度も京都へ行かないうちに天下の権が京都から鎌倉へ自然に流れてくるやうな巧みな工作を施したものだ。
もつとも頼朝の場合は京都を尊敬するといふ形式を売つて実権を買つたので大義名分があり、京都の方に敵もあつたが味方も多い。藤原一門の対立の如きものもあり、九条|兼実《かねざね》の如く頼朝から関白氏の長者を貰つて、頼朝に天下の実権を引渡すやうな、いつの世にも絶えまのないエゴイストの存在が巧みに利用せられてゐるのである。
家康の場合は先づ根本が違つてゐて、豊臣徳川は同一線上に並立するものであり、朝廷と武家といふぐあひに虚名を与へて実をとるといふことができない。亡ぼすか、さもなけ
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