遺恨
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)咽喉《のど》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)キャア/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 梅木先生は六十円のオツリをつかんで中華料理店をとび出した。支那ソバを二つ食ったのである。うまかったような気がする。然し、味覚の問題ではない。先生は自殺したくなっていた。インフレ時代に物を食うということが、こんなミジメなものだとは。お金をだしながら乞食の自覚を与えられたのであった。
 梅木先生は裏口営業とはどんなものか知らなかった。終戦以来、料理店の門をくゞるのは、はじめてゞあった。
 裏口営業などゝ云われているが、表に、只今営業中、という札が下っている。すると、裏口とはどういうことだろう? いっぺん裏口をくゞったら、どんなに爽快だろうか。せめて、只今営業中、の表口でいゝからくゞってみたいものだと考えていたのである。
 この日、梅木先生は一方ならぬ決心をしていた。どうしても、食う。あの只今営業中、の札のかゝった戸口をくゞるのだ。
 悲愴な覚悟というものは、たとえば味覚に端を発していながらも、結局は特攻隊と同じような、支離滅裂な亢奮と絶望に帰一するものらしい。
 戸口をくゞる時から、梅木先生の覚悟はたゞ事ではなかった。逆上、それから、混乱だ。
 けれども、店内は、意外や、あたりまえの店内の風景であった。つまり、昔、先生も記憶にある支那ソバ屋の風景だ。三組の客がいる。奇妙に、みんな女である。一組は女学校をでて間もないような三人づれ、一組は、ダンサアとでもいうような二人づれ。あとの一組は四人づれで、これも女学校を卒業したて、というような年頃だ。みんな各々のテーブルで、支那ソバを食べたり、キャア/\笑いさゞめいたり昔とそっくりで、一向に自粛しているところはない。
 戦争前の記憶の風景と同じものに接して、先生は落着いたり、なつかしい思いに打たれたりせず、まったく敵地に至った思い、全然アガッて、意識不明にちかい大混乱におちいった。
 ともかく、あいたテーブルにたどりついてこしかける。
 すると、キャア/\笑いさゞめいていた三人組の一人がブラリと立ちあがって、先生のテーブルの前に立ち、先生をジッと睨みつけるのである。
 先生は声がでなかった。恐怖のために、心
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