臓が止まりかけているのである。必死の勇をこらして、呆然と女を見つめた。
女は怒って叫んだ。
「何を召上るんですか!」
女給だったのである。先生はホッとすると、あとはもう後続する智慧が浮かばず、
「アレ」
と、一言、向うのテーブルで御婦人組の召上りつゝあるものを指さすだけが精一パイであった。
女は黙って立ったが、やがて、ドンブリを持ってきて、投げすてるように置いて行った。
先生はムサボリ食った。まずくはない。然し、シカとは分らない。昔の記憶と比較するには、昔の記憶が遠ざかりすぎているようである。昔なら、なんという食べ物に当るのだか、五目支那ソバ、というのかも知れぬ。ユデタマゴの一キレがある。イカがある。キャベツもある。先生は慌てゝいたので、コショーをふりかけるのを忘れたが、食べ終ってから、テーブルの上に薬味のあることにも気付いたのである。
先生の心は戦かった。もう一パイ食べるために女給をよばねばならぬ。然し、女給はお客よりもお客らしく、自分たちのテーブルでキャア/\さゞめいているのである。
まったく、分らないのはムリがない。先生とても、毎日街を歩くから、女の服装について知ってはいたが、大別して、ダンサーらしいものと、女学校卒業の事務員らしいのと、未婚の女にこの二色があって、令嬢だの女中だのという階級の別はないようであった。
女給と分って、三人組を見直し、お客と比較してみても、やっぱり区別が分らない。服装も髪の様子も同じようで、違っているのは、女給のテーブルには支那ソバのドンブリがないことだけであった。
彼女らは額をあつめて話すかと思うと、のけぞって笑うのである。まったく、イスがうしろへヒックリかえりはしないかとハラハラする程豪放にのけぞり天井めがけて、ゲタゲタワハワハと爆笑をふきあげる。女が小平に殺される、よくもそんなことが有るものだ、と、先生は理解に苦しむのであった。
先生は、思いあきらめて、一杯だけで帰ろうかと思った。然し、一パイで帰るにしても、やっぱりいくらですか、と、いって、女給に呼びかけなければならない。それぐらいなら、もう一パイ、たべたい。一パイだけでは、食べた手ごたえが分らないのだ。
「モシ/\、モシ/\」
先生はむなしく呼んだ。それを数回くりかえした。先生は、自分が今とても悪事を働いているという罪の意識と争わなければならなかった。
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