。逆に力が働く故を以て「現在」と云ふことが出来る。即ち過去にも意識はあつた[#「あつた」に傍点]。「意識する力」と「意識対象」と「意識内容」は確にあつた[#「あつた」に傍点]。然し、それは実に「あつた」のみである。何者、力あるところは現在のみである。故に嘗て「あつた」力は過去となるやいなや無い。残るものは嘗てあつた[#「あつた」に傍点]力によつて意識された意識内容のみである。斯くして「意識の力」は永遠に「意義しつゝある力」である。

   二、意識は時間を規定する

 意識の力には本来、過去も未来もない。さらに過去、未来と並べて現在と云ふべき現在もない。(本論五節参照)。本論一節の如く「意識しつゝある力」即ち「現在働きつゝある力」を中心としなければ「時間」は成立しない。従て始めに「時間」を仮定し次に「意識のはたらき」を規定することは誤である。元来、力(ハタラキ)は必然的に動きつゝあるもので、静止は力ではない。然し客観的に対象とせられた力は、それは「力」ではない。単にある力を加へられた内容にすぎぬ。例へば我々は、ある人が意識しつゝあることを知ることが出来る。従て我々は其の人の「意識しつゝある力[#「力」に傍点]」を予想することも出来る。しかし我々に予想された「或人の力」は力ではなくて我々に意識されたものに過ぎない。或人の意識の力は決して我々の意識の力ではない。従てそれは力ではない。力はあくまで「能動」であつて「他動」ではない。故に力は常に一つである。予想された力は無数にある。しかしそれは前述の如く単なる客観的対象であつて、現に客観に対して働きつゝある力は常に一つである。「Aの力」にとつて「Aの力」のみ力であり、「Bの力」にとつて「Bの力」のみが力である。かくて力は常に一つのみである。然らば「意識しつゝある力」は唯一の力である。従て意識しつゝある力は当然全てを規定する必要がある。何となればもし意識しつゝある力以外に規定するものがあれば、その規定するものは当然「力」でなければならぬ。これは不合理である。故に「意識する力」は当然全てを規定し従て時間を規定する必要がある。

   三、「過去」に就て

「意識しつゝある力」は現在である。従て「意識しつゝある力」には過去と未来は存在しない。しかし「意識しつゝある力」は常に動く。常に現在を持して動きつゝある。故に動きつゝある力の跡
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