段に井目《せいもく》置いて勝味のない手並であつた。食堂の親爺は、その僕に井目置いて、こみを百もらつて、勝てないのである。そのくせ碁が夫婦喧嘩の種になるほど大好きだ。好きこそ物の上手なれといふ諺が、物の見事に空理である。
 つれづれに、親爺と一局手合せしたのが運の尽きであつた。碁の達人が現れたといふので、夜になると親爺の碁敵がつめかけてくる。親爺の碁敵だから、推して知るべし。井中の蛙は僕だが、大海を忘れるよりも、かうなると徒然の娯しみが、却て苦痛だ。
 折から食堂の二階に空室ができた。元来旅館風につくられた建物で、会席には手頃なのである。得たりとばかり親爺を籠絡して、ここに碁会所を創設させた。碁会所なら多士済々、僕ひとりがこの連中の相手にならずにすむ筈である。あはよくば腕をみがいて、東京の連中に一泡吹かしてやらうといふ遠大な魂胆もある。
 毎晩つめかけて僕を悩ました連中のひとりに、関さんといふ好人物がゐた。昔はれつきとした酒屋の旦那だが、今は商売に失敗して、奥さんが林長二郎の家政婦になつて生計を立ててゐる。金さへ持つと、女が好きになる悪癖があつて、碁会所をやつてゐる最中にも、近所の怪しげ
前へ 次へ
全10ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング