暗い青春
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)萃《あつむ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長島|萃《あつむ》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)トボ/\
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 まつたく暗い家だつた。いつも陽当りがいゝくせに。どうして、あんなに暗かつたのだらう。
 それは芥川龍之介の家であつた。私があの家へ行くやうになつたのは、あるじの自殺後二三年すぎてゐたが、あるじの苦悶がまだしみついてゐるやうに暗かつた。私はいつもその暗さを呪ひ、死を蔑み、そして、あるじを憎んでゐた。
 私は生きてゐる芥川龍之介は知らなかつた。私がこの家を訪れたのは、同人雑誌をだしたとき、同人の一人に芥川の甥の葛巻義敏がゐて、彼と私が編輯をやり、芥川家を編輯室にしてゐたからであつた。葛巻は芥川家に寄宿し、芥川全集の出版など、もつぱら彼が芥川家を代表してやつてゐたのである。
 葛巻の部屋は二階の八畳だ。陽当りの良い部屋で、私は今でも、この部屋の陽射しばかりを記憶して、それはまるで、この家では、雨の日も、曇つた日もなかつたやうに、光の中の家の姿を思ひだす。そのくせ、どうして、かう暗い家なのだらう。
 この部屋には青いジュウタンがしきつめてあつた。これは芥川全集の表紙に用ひた青い布、私の記憶に誤りがなければ、あの布の余りをジュウタンにつくつたもので、だから死んだあるじの生前にはなかつた物のやうである。陰鬱なジュウタンだつた。いつも陽が当つてゐたが。
 大きな寝台があつた。葛巻は夜ごとにカルモチンをのんでこの寝台にねむるのだが、普通量ではきかないので莫大な量をのみ、その不健康は顔の皮膚を黄濁させ、小皺がいつぱいしみついてゐる。
 この部屋では、芥川龍之介がガス栓をくはへて死の直前に発見されたこともあつたさうで、そのガス栓は床の間の違ひ棚の下だかに、まだ、あつた。
 この部屋で私は幾夜徹夜したか知れない。集つた原稿だけで本をだすのは不満だから、何か飜訳して、と葛巻が言ふ。だから、こゝで徹夜したのは大概飜訳のためであつたが、私は飜訳は嫌ひなのだが、ぢやあ小説書いて、とくる。私は当時はさう気軽に小説は書けないたちで、なぜなら、本当に書くべきもの、書かねばならぬ言葉がなかつたから。私は一夜に三四十枚飜訳した。辞書をひかずに、分らぬところは、ぬかして訳してしまふから早いのは当りまへ、明快流麗、葛巻はさうとは知らなかつた。
 ところが葛巻は、私の横で小説を書いてゐる。これが又、私の飜訳どころの早さではない。遅筆の叔父とはあべこべ、水車の如く、一夜のうちに百枚以上の小説を書いてしまふ。この速力は私の知る限りでは空前絶後で、尤も彼は一つも発表しなかつた。
 私はこの部屋へ通ふのが、暗くて、実に、いやだつた。私は「死の家」とよんでゐたが、あゝ又、あの陰鬱な部屋に坐るのか、と思ふ。歩く足まで重くなるのだ。私は呪つた。芥川龍之介を憎んだ。然し、私は知つてゐたのだ。暗いのは、もとより、あるじの自殺のせゐではないのだ、と。ジュウタンの色のせゐでもなければ、葛巻のせゐでもなかつた。要するに、芥川家が暗いわけではなかつたのだ。私の年齢が暗かつた。私の青春が暗かつたのだ。
 青春は暗いものだ。
 この戦争期の青年達は青春の空白時代だといふけれども、なべて青春は空白なものだと私は思ふ。私が暗かつたばかりでなく、友人達も暗かつたと私は思ふ。発散のしやうもないほどの情熱と希望と活力がある。そのくせ焦点がないのだ。
 私は小説を書いた。文学に生きると言ふ。然し、何を書くべきか、私は真実書かずにはゐられぬやうな言葉、書かねばならぬ問題がなく、書き表はさねば止みがたい生き方も情熱もなかつたのだ。たゞ虚名を追ふ情熱と、それゆゑ、絶望し、敗北しつゝある魂があつた。
 あの頃の同人では、あの頃のうちに、もう三人、死んだ。一番目が根本君。彼は葛巻に絶交のハガキを送つたことがあつた。その前夜、根本君のアパートへ同人が集つた。そのアパートは九段下にあり、私達のたむろする三崎町のアテネ・フランセから近かつたので、彼の不在の部屋へあがりこみ(管理人から扉をあけてもらつて)何か雑誌の相談をしたのであつたと思ふ。寒かつたので、押入から根本君の布団をだし、それを敷いて葛巻が、布団をかぶつてゐた。そこへ根本君が帰つてきた。絶交のハガキは我々が帰つたあとで、直ちに書かれたものゝやうであつた。
 ハガキには、絶交の理由は分るでせう、と書いてあつたが、葛巻は分らぬといひ、私も亦、今もつて、分らない。無断で上りこんだのがいけないのか、布団を敷いたのが、いけないのか。根本君は肺病だつた。官吏であつた。力のないセキをしながら、いつもトボトボ歩いてゐる陰気なマジメな人であつた。笑ふこともなかつたし、殆ど、話をしかけるといふこともなかつた。そして、根本君は、まもなく死んだ。
 根本君は何を、なぜ、怒つたか。私はそれを知りたいとは思はない。知る必要もないではないか。どうせ、人は、ヒステリイなんだ。怒りは常に親しい者に、そして、怒りの悲しさは、何とまあ、人の悲しい姿そのものであらうか。力のないセキを落しながら常にトボ/\たゞ俯向いて歩いてゐた根本君は、大いなる怒りが、常に又、その胸に秘められてゐた筈だつた。何ものに向けられた怒りだか、根本君すら分らなかつた筈だ。たゞ、葛巻に向けられた怒りでなかつたことだけは、たしかだ。それは、根本君の青春だつたに相違ない。
 二番目は脇田君。彼は三田の学生であつた。セムシであつた。こんなヒネクレたところのない不具者は珍しい。私達が劇団をつくらうとした時、彼は笑ひながら、俺にできるのはノートルダムだけだ、と言つた。彼は明るく爽やかであつた。彼の葬儀は世田ヶ谷だかの遠い寺で行はれ、私は道に迷ひ、田舎道をぐる/\歩き廻つてゐるうち、もう葬儀が終り、寺をでて帰路を歩いてくる同人諸君に会つた。うらゝかなお天気。おだやかな田舎道。私はお寺を見つけずに却つて良かつたと思つた。私は頭をかいて、やつぱり死んぢやつた、と苦笑しながら昇天して行く脇田君が見えるやうな気がした。サヨナラ、と言つてゐる。御達者で、と言つてゐる。三田の学帽をふつてゐる。サヨナラ、脇田君。
 私はこの戦争中、爆撃の翌朝、電車が通らないので、東京へ歩く途中、大森で警報がでた。そのとき、家から顔をだして、立ち止つて思案してゐる私に呼びかけた人があつた。セムシであつた。脇田君の死んだ頃と同じぐらゐの年配だつた。セムシ特有の蒼白な顔に、静かな笑顔があつた。
「単機ださうです」
 御安心なさい、といふ笑顔であつた。
「うちの防空壕を御遠慮なく使つて下さい」
 脇田君は大森の木原山に住んでゐたのだ。私が彼を思ひだしたのは言ふまでもない。あたゝかい心と、やさしい魂が私の心をみたしてくれた大きな感謝に、私はほてるやうな気持で、暫くは夢心持で、逃げるやうに道を急いでゐたものだ。
 三人目は長島|萃《あつむ》であつた。
 彼にとつては、私だけが、唯一の友達であつたやうだ。他の誰とも親しい交りをほつしてゐないやうだつた。文学を志す青年に、芥川龍之介の自殺した家が珍しくない筈はない。彼は然し、さういふ興味にテンタンで、雰囲気的なものなどに惹かれることのない気質のやうで、この家を訪ねたことは一度だけ、たしか、さういふ話である。
 彼はよく自殺して、しくじつた。彼はたぶん遺伝梅毒だつたと思ふ、周期的に精神錯乱し、その都度自殺を試みる。首くゝりの縄が切れて気絶して発見されたり、致死量以上の薬をのみすぎて、助かつたり、その都度、私のところへ遺書がくる。最後に発狂し、脳炎で死んだ。
 私は長島の自殺が、いはゞ私への抵抗ではないかと思つた。彼は私と争つてゐた。然し、私の影と。私が真実あるよりも、彼はもつと高く深い何かを私に投影し、そして、私と争つてゐたやうだ。彼の死後、手垢にまみれたフランスの本だけが残された。その本のあちこちに書かれてゐる彼の感想、その中に凡そフランスの本自身とは縁のない言葉が現れてくる。「安吾はエニグムではない」「安吾は死を怖れてゐる。然し彼は、知識は結ひ目を解くのでなしに、結ひ目をつくるものだと自覚してゐるから」「苦悩は食慾ではないのだよ。安吾よ」
 この最後のは、どういふ意味なのだらう。私には分らない。彼はいつかコクトオのポトマックをぶらさげて、私のところへ現れてきたことがある。
「読んだかい、この本?」
 私はうなづいた。葛巻がコクトオの熟読者だから、私も彼の蔵書をかりて、読むことがあつたから。
「笑ひだしてしまつたのだ。君はヘドが吐けないたちぢやないか。君は何をたべても、あたらない。然し、君自身にも、毒はないね。君は蝮《まむし》ぢやないね」
 彼の笑顔はせつなさうだつた。私は彼の言葉が理解できなかつた。然し、彼が私に就て考へるやうに、私が私に就て考へることの必要を認めてゐなかつたので、私は彼に対しては、たゞ、黙殺、無言でゐるだけだつた。
 私は彼が自殺に失敗し、生き返り、健康をとりもどして私の前へ現れたとき、思はず怒つたものだつた。
「自殺だなんて、そんなチャチな優越が。おい、笑はせるな」
 彼の淋しい顔は今も忘れられない。
「知つてゐるよ。然し、ダメなんだ。俺は」
 然し、ダメなんだ、俺は。それは彼の周期的な精神錯乱のことであらうか。その意味だけではなかつたやうだ。彼は私ごとき者を怖れ、闘ふ必要はなかつたのである。彼が私に投影してゐたものは、彼の何であつたのか。然し、彼は、その錯乱のたびに、私への抵抗から死へ急いだことは事実だと私は思ふ。安吾は死ねない。ともかく、俺は死ねる、といふことだつた。
 彼の死床へ見舞つたとき、そこは精神病院の一室であつたが、彼は家族に退席させ、私だけを枕頭によんで、私に死んでくれ、と言つた。私が生きてゐては死にきれない、と言ふのだ。お前は自殺はできないだらう。俺が死ぬと、必ず、よぶから。必ず、よぶ。彼の狂つた眼に殺気がこもつてギラ/\した。すさまじい気魄であつた。彼の精神は噴火してゐた。灼熱の熔岩が私にせまつてくるのではないかと思はれたほどである。どうだ。怖しくなつたらう。お前は怖しいのだ、と彼は必死の叫びをつゞけた。
 彼はなぜ、そこまで言つてしまつたのだらう? そこまで、言ふべきではなかつた。私はたしかに怖しかつたのだ。私は圧倒され、彼に殺される宿命を感ぜざるを得なかつたのである。然し、お前は怖しくなつたらう、といふ叫びは、私にともかく余裕を与へた。私は反射的に傲然と答へてゐた。あたりまへだ、と。そして私は全ての力をこめて、彼を睨んでゐた。
 彼の顔に、にはかに、激しい落胆があらはれた。そして、彼は沈黙してしまつた。
 けれども、私は、彼の死の瞬間の幽霊を怖れてゐたものである。然し、幽霊の訪れはなかつた。彼の心は柔和なのだ。彼の私への友情は限りない愛によつてみたされてゐた。思へば彼は、その死床に於て、私をよぶ、といふ奇怪に古風な呪縛のカラクリを発案してまで、私をへこませ、一生の痛打、一撃を加へずにゐられぬ念願があつたのだらう。彼はさういふ男であつた。真実幽霊となつて一撃しうるひたむきな情熱はない。それをカラクリに一撃しようとする茶番の心得はあつた。その茶番に彼の悲願が賭けられ、噴火する気魄と情熱が賭けられてゐても、それが茶番であることを彼自身も亦知つてゐた。常に悲しく知つてゐた。彼の自殺も同じ茶番であつたのだ。その一生の終るとき、彼の幽霊は私を訪れる代りに、蒼ざめた唯一語をむなしく虚空に吐きすてゝゐた筈であつた。茶番は終つた! と。茶番は彼の一生であつた。

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 青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない。人間の喜怒哀楽も、舞台裏の演出家はたゞ一人、それが死だ。人は必ず死なねばならぬ。この事実ほど我々の生存に決定的な力を加へるものはなく、或ひはむしろ、これのみが力の唯一の源泉ではないかとすら、私は思はざるを
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