易い。
 私があまりアッサリと、動揺は受けませんでした、と言ひ切つたものだから、平野謙は苦笑のていであつたが、これは彼の質問が無理だ。した、しなかつた、私はどちらを言ふこともでき、そのどちらも、さう言ひきれば、さういふやうなものだつた。
 今、回想しつゝあるこの年代は、もはや動揺の末期であつた。葛巻を訪れると、昨日中野重治が来たとか、窪川鶴次郎が今帰つたところだとか、私は行き違つて誰に会ふこともなかつたが、地下運動の闘士が金策にきて今帰つたといふまだ座布団の生あたゝかい上へ坐つたこともあつた。葛巻も留置され、私はあるじのゐない部屋でたつた一人徹夜してゐたこともあり、そのとき高橋幸一が警察の外に身をひそめて一夜留置場の窓を眺めつゞけてゐたといふ、驚くべき彼の辛棒力であるが、いつか私の家へ夜更けに訪ねてきたが、私の部屋から光が外へもれ、私の勉強の姿が見えるので、外に佇んで私の勉強の終るのを待ち、夜が明けて私が寝ようとするのを認めて、訪ひを通じたといふこともある。
 サーカスの一座に加入をたのむ私であつたが、私のやぶれかぶれも、共産主義に身を投じることで騒ぎ立つことはなくなつてゐた。私は私の慾情に就て知つてゐた。自分を偽ることなしに共産主義者ではあり得ない私の利己心を知つてゐたから。
 私の青春は暗かつた。身を捧ぐべきよりどころのない暗さであつた。私は然し身を捧ぐべきよりどころを、サーカスの一座に空想しても、共産主義に空想することは、もはや全くなくなつてゐたのだ。
 私はともかくハッキリ人間に賭けてゐた。
 私は共産主義は嫌ひであつた。彼は自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた。
 我々の一生は短いものだ。我々の過去には長い歴史があつたが、我々の未来にはその過去よりも更に長い時間がある。我々の短い一代に於て、無限の未来に絶対の制度を押しつけるなどとは、無限なる時間に対し、無限なる進化に対して冒涜ではないか。あらゆる時代がその各々の最善をつくし、自らの生を尊び、バトンを渡せば、足りる。
 政治とか社会制度は常に一時的なもの、他より良きものに置き換へらるべき進化の一段階であることを自覚さるべき性質のもので、政治はたゞ現実の欠陥を修繕訂正する実際の施策で足りる。政治は無限の訂正だ。
 その各々の訂正が常に時代の正義であればよろしいので、政治が正義であるために必要欠くべからざる根柢の一事は、たゞ、各人の自由の確立といふことだけだ。
 自らのみの絶対を信じ不変永遠を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。
 私は革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。
 私にとつて必要なのは、政治ではなく、先づ自ら自由人たれといふことであつた。
 然し、私が政治に就てかう考へたのは、このときが始めてゞはなく、私にとつて政治が問題になつたとき、かなり久しい以前から、かう考へてゐた筈であつた。だが、人の心は理論によつてのみ動くものではなかつた。矛盾撞着。私の共産主義への動揺は、あるひは最も多く主義者の「勇気」ある踏み切りに就てゞはなかつたかと思ふ。ヒロイズムは青年にとつて理智的にも盲目的にも蔑まれつゝ、あこがれられるものであつた。私は当時ナポレオンを熱読したものだ。彼がとらはれの島で死の直前まで語つた言葉の哀れ呆れ果てた空疎さ、世にこれほどの距離ある言葉、否、言葉自体が茶番の阿呆らしさでしかない。私の胸の青春は、笑ひころげつゝ、歎息し、時には涙すら滲んだ夜もあつた。言葉にのみイノチを見る文学がその言葉によつてナポレオンを笑ひうるのか、ナポレオンが文学を笑ひうるのか、私には分らなかつた。
 青春の動揺は、理論よりも、むしろ、実際の勇気に就てゞはないかと私は思ふ。私には勇気がなかつた。自信がなかつた。前途に暗闇のみが、見えてゐた。
 そのころアテネ・フランセの校友会で江ノ島だかへ旅行したことがある。そのとき、私の見知らない若いサラリイマンに、妙になれなれしく話しかけられたものであつた。彼は私だけ追ひまはして、私にいつも話しかけ、私の影のやうにつきまとつて私を苦しめたものであるが、あたりに人のゐないとき、彼はとつぜん言つた。
「あなたには何人の、何十人のお嬢さんの恋人があるのですか」
 私は呆気にとられた。彼は真剣であつたが、落着いてゐた。
「あなたは、あなたを讃美するお嬢さん方にとりまかれてゐる。私はいつも遠くから見てゐたのです。私は寂しくも羨しくもありますが、私の夢をあなたの現実に見てゐることの爽やかさにも酔ひました。あなたは王者ですよ。美貌と才気と力にめぐまれて」
 彼の言葉はかなり長いものだつた。彼は私の友達になりたいのではなく、たゞ、私に一言話しかける機会だけを持つてゐたといふのである。私の現実に彼自身の夢の実現を見て悲しく酔つてゐるといふことを。
 そして彼は私に話すべく用意してゐた言葉だけを言ひ終ると、変にアッサリと立ち去つた。そしてもう私の身辺へ立寄らうとしなかつた。
 実際バカげた青年だつた。
 私にはお嬢さんの恋人どころか、友達だつてありはしない。彼はいつたい何を夢見てゐたのだらう? 私の身辺の何事から、こんな思ひもよらぬ判断がでてくるのだか、思ひ当ることは一つもなかつた。
 けれども私は長島と白水社でフランスの本を買つて出たたそがれ、やつぱり見知らぬ青年によびとめられた。この青年は三十をすぎてゐるやうだつた。彼は私とちかづきになることを長らく望んでゐたのだといふ。
「十五分だけ」
 彼は十五分に力をいれて言つた。十五分だけ自分と語る時間を許せと言ふのだ。私たちは喫茶店へはいつた。
 彼の語つたことは、然し、彼自身の心境だけで、傍観者以外であり得ない無気力、マルキストにもなれなければエピキュリアンにもなり得ない、安サラリイマンの汲々たる生活苦が骨の髄まで沁みついた切なさに就てゞあつた。
 彼は小男であつた。そして安サラリイマンの悲劇、傍観者の無気力、虚無に就て語りながら、然し彼は傲然と椅子にふんぞり返つて、およそ何物をも怖れぬやうな威張りかへつた態度であつた。たゞ、口べりに苦笑がうかんでゐたが、私をも刺殺するやうな横柄な苦笑であつた。
「君には自信がある。満々たる自信だ。君はいつも大地をふみしめて歩いてゐるやうだ。僕は君を見るたびに、反撥とあるなつかしさ、憎しみと切なさのやうなものを、いつもゴッチャに感じてゐたものだ」
 彼はかう私をおだてるやうなことを言ひながら、益々傲然とふんぞりかへり、苦笑は深かまり、私を嘲笑するかのやうなふうでもある。彼はとつぜん言葉を切りかへて、
「僕は近々日本を去る。支那へ行つてしまふのさ。何物と果して訣別しうるかね」
 彼は悠々と立上つて私たちにいとまをつげ、傲然と消えてしまつたものだ。
 満々たる自信どころか、ひとかけらの自信、生きぬくよりどころのない私であつた。私の踏む足はいつも宙に浮いてゐたのだ。私は私自らが、人生を舞台の茶番の芸人にすぎないやうな悲しさ、もどかしさに、苦しめられたものだ。なんとも異様なむなしさだつた。彼等は私を嘲笑してゐるわけではなかつたらう。傲然先生の口べりの苦笑も、彼はさういふふうにしかその親愛を表す手段を知らなかつたに相違ない。
 葛巻義敏なども、よそ目には最も幸福な人のやうに人々には思はれてゐたのである。彼は柔和な貴公子で、芥川龍之介の甥である。人々は彼が多くの麗人たちにとりかこまれ、いづれアヤメと思案中、さういふ多幸な憂鬱を嗅ぎだしてゐるやうだつた。ところが御本人ときては、ある令嬢に片思ひで、夜は悶々ねむられず、カルモチンをガブのみにして、寝台からころげ落ちてゐるのである。
 そして葛巻と私は、芥川家の二階の一室で、言ひ争ひ、幾夜徹夜したであらうか。私はプン/\怒りながら飜訳してゐる。彼は小説を書いてゐる。どちらもひどい速力なのだ。私はいつも暗かつた。
 私は思ひだす、あの家を。いつも陽当りの良い、そして、暗い家。戦争はあの家も小気味よく灰にしてしまつたさうだが、私の暗い家は灰にならない。その家に私の青春がとぢこめられてゐる。暗さ以外に何もない青春が。思ひだしても、暗くなるばかりだ。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「潮流 第二巻第五号」潮流社
   1947(昭和22)年6月1日発行
初出:「潮流 第二巻第五号」潮流社
   1947(昭和22)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
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