へ急いだことは事実だと私は思ふ。安吾は死ねない。ともかく、俺は死ねる、といふことだつた。
 彼の死床へ見舞つたとき、そこは精神病院の一室であつたが、彼は家族に退席させ、私だけを枕頭によんで、私に死んでくれ、と言つた。私が生きてゐては死にきれない、と言ふのだ。お前は自殺はできないだらう。俺が死ぬと、必ず、よぶから。必ず、よぶ。彼の狂つた眼に殺気がこもつてギラ/\した。すさまじい気魄であつた。彼の精神は噴火してゐた。灼熱の熔岩が私にせまつてくるのではないかと思はれたほどである。どうだ。怖しくなつたらう。お前は怖しいのだ、と彼は必死の叫びをつゞけた。
 彼はなぜ、そこまで言つてしまつたのだらう? そこまで、言ふべきではなかつた。私はたしかに怖しかつたのだ。私は圧倒され、彼に殺される宿命を感ぜざるを得なかつたのである。然し、お前は怖しくなつたらう、といふ叫びは、私にともかく余裕を与へた。私は反射的に傲然と答へてゐた。あたりまへだ、と。そして私は全ての力をこめて、彼を睨んでゐた。
 彼の顔に、にはかに、激しい落胆があらはれた。そして、彼は沈黙してしまつた。
 けれども、私は、彼の死の瞬間の幽霊を怖れてゐたものである。然し、幽霊の訪れはなかつた。彼の心は柔和なのだ。彼の私への友情は限りない愛によつてみたされてゐた。思へば彼は、その死床に於て、私をよぶ、といふ奇怪に古風な呪縛のカラクリを発案してまで、私をへこませ、一生の痛打、一撃を加へずにゐられぬ念願があつたのだらう。彼はさういふ男であつた。真実幽霊となつて一撃しうるひたむきな情熱はない。それをカラクリに一撃しようとする茶番の心得はあつた。その茶番に彼の悲願が賭けられ、噴火する気魄と情熱が賭けられてゐても、それが茶番であることを彼自身も亦知つてゐた。常に悲しく知つてゐた。彼の自殺も同じ茶番であつたのだ。その一生の終るとき、彼の幽霊は私を訪れる代りに、蒼ざめた唯一語をむなしく虚空に吐きすてゝゐた筈であつた。茶番は終つた! と。茶番は彼の一生であつた。

          ★

 青春ほど、死の翳を負ひ、死と背中合せな時期はない。人間の喜怒哀楽も、舞台裏の演出家はたゞ一人、それが死だ。人は必ず死なねばならぬ。この事実ほど我々の生存に決定的な力を加へるものはなく、或ひはむしろ、これのみが力の唯一の源泉ではないかとすら、私は思はざるを得ぬ。
 青春は力の時期であるから、同時に死の激しさと密着してゐる時期なのだ。人生の迷路は解きがたい。それは魂の迷路であるが、その迷路も死が我々に与へたものだ。矛盾撞着、もつれた糸、すべて死が母胎であり、ふるさとでもある人生の愛すべく、又、なつかしい綾ではないか。
 私の青春は暗かつた。私は死に就て考へざるを得なかつたが、直接死に就て思ふことが、私の青春を暗くしてゐたのではなかつた筈だ。青春自体が死の翳だから。
 私は野心に燃えてゐた。肉体は健康だつた。私の野性は、いつも友人達を悩ましたものだ。なぜなら、友人達は概ね病弱で、ひよわであつたから。
 葛巻はカリヱスだつた。胸のレントゲン写真を私に見せ、自分も頬杖をついて眺めてをり、どう? ちよつと、いやね、と言ふ。クスリと大人のやうな笑ひ方をする。そして、君は健康だねえ、と言ふ。私はまつたく健康だつた。然し健康な肉体、健康な魂ほど、より大きな度合ひをもつて、死にあやつられてゐるものだ。
 私はまつたく野心のために疲れてゐた。
 その野心は、たゞ、有名になりたい、といふことであつた。ところが私は、たゞ有名になりたいと焦るばかりで、何を書くべきか、書かねばならぬか、真実、わが胸を切りひらいても人に語らねばならぬといふ言葉をもたない。野心に相応して、盲目的な自信がある。すると、語るべき言葉の欠如に相応して、無限の落下を見るのみの失意がある。
 その失意は、私にいつも「逃げたい心」を感じさせた。私は落伍者にあこがれたものだ。屋根裏の哲学者。巴里《パリ》の袋小路のどん底の料理屋のオヤヂの哲学者ボンボン氏。人形に惚れる大学生。私は巴里へ行きたいと思つてゐた。私の母も私を巴里へやりたい意向をもつてゐたが、私は然し、暗い予感があつて、巴里の屋根裏で首をくゝつて死ぬやうな、なぜか、その予感から逃れることができなかつたので、積極的に巴里行を申しでる気持にもならなかつたのだ。思へば落伍者へのあこがれは、健康な心の所産であるかも知れぬ。なぜなら、野心の裏側なのだから。
 さういふ一日、私は友人にも、母にも、すべてに隠して、ひそかに就職にでかけて行つた。神田のさるカフェーで支配人を求めてゐた。カフェーの名は忘れたが、私は新聞広告を見て意を決した。誰の目にも一番くだらなさうな職業だから、意を決したのだ。
 私はその日をハッキリ覚えてゐる。昭和五年
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