ジメな人であつた。笑ふこともなかつたし、殆ど、話をしかけるといふこともなかつた。そして、根本君は、まもなく死んだ。
 根本君は何を、なぜ、怒つたか。私はそれを知りたいとは思はない。知る必要もないではないか。どうせ、人は、ヒステリイなんだ。怒りは常に親しい者に、そして、怒りの悲しさは、何とまあ、人の悲しい姿そのものであらうか。力のないセキを落しながら常にトボ/\たゞ俯向いて歩いてゐた根本君は、大いなる怒りが、常に又、その胸に秘められてゐた筈だつた。何ものに向けられた怒りだか、根本君すら分らなかつた筈だ。たゞ、葛巻に向けられた怒りでなかつたことだけは、たしかだ。それは、根本君の青春だつたに相違ない。
 二番目は脇田君。彼は三田の学生であつた。セムシであつた。こんなヒネクレたところのない不具者は珍しい。私達が劇団をつくらうとした時、彼は笑ひながら、俺にできるのはノートルダムだけだ、と言つた。彼は明るく爽やかであつた。彼の葬儀は世田ヶ谷だかの遠い寺で行はれ、私は道に迷ひ、田舎道をぐる/\歩き廻つてゐるうち、もう葬儀が終り、寺をでて帰路を歩いてくる同人諸君に会つた。うらゝかなお天気。おだやかな田舎道。私はお寺を見つけずに却つて良かつたと思つた。私は頭をかいて、やつぱり死んぢやつた、と苦笑しながら昇天して行く脇田君が見えるやうな気がした。サヨナラ、と言つてゐる。御達者で、と言つてゐる。三田の学帽をふつてゐる。サヨナラ、脇田君。
 私はこの戦争中、爆撃の翌朝、電車が通らないので、東京へ歩く途中、大森で警報がでた。そのとき、家から顔をだして、立ち止つて思案してゐる私に呼びかけた人があつた。セムシであつた。脇田君の死んだ頃と同じぐらゐの年配だつた。セムシ特有の蒼白な顔に、静かな笑顔があつた。
「単機ださうです」
 御安心なさい、といふ笑顔であつた。
「うちの防空壕を御遠慮なく使つて下さい」
 脇田君は大森の木原山に住んでゐたのだ。私が彼を思ひだしたのは言ふまでもない。あたゝかい心と、やさしい魂が私の心をみたしてくれた大きな感謝に、私はほてるやうな気持で、暫くは夢心持で、逃げるやうに道を急いでゐたものだ。
 三人目は長島|萃《あつむ》であつた。
 彼にとつては、私だけが、唯一の友達であつたやうだ。他の誰とも親しい交りをほつしてゐないやうだつた。文学を志す青年に、芥川龍之介の自殺した家が珍しくない筈はない。彼は然し、さういふ興味にテンタンで、雰囲気的なものなどに惹かれることのない気質のやうで、この家を訪ねたことは一度だけ、たしか、さういふ話である。
 彼はよく自殺して、しくじつた。彼はたぶん遺伝梅毒だつたと思ふ、周期的に精神錯乱し、その都度自殺を試みる。首くゝりの縄が切れて気絶して発見されたり、致死量以上の薬をのみすぎて、助かつたり、その都度、私のところへ遺書がくる。最後に発狂し、脳炎で死んだ。
 私は長島の自殺が、いはゞ私への抵抗ではないかと思つた。彼は私と争つてゐた。然し、私の影と。私が真実あるよりも、彼はもつと高く深い何かを私に投影し、そして、私と争つてゐたやうだ。彼の死後、手垢にまみれたフランスの本だけが残された。その本のあちこちに書かれてゐる彼の感想、その中に凡そフランスの本自身とは縁のない言葉が現れてくる。「安吾はエニグムではない」「安吾は死を怖れてゐる。然し彼は、知識は結ひ目を解くのでなしに、結ひ目をつくるものだと自覚してゐるから」「苦悩は食慾ではないのだよ。安吾よ」
 この最後のは、どういふ意味なのだらう。私には分らない。彼はいつかコクトオのポトマックをぶらさげて、私のところへ現れてきたことがある。
「読んだかい、この本?」
 私はうなづいた。葛巻がコクトオの熟読者だから、私も彼の蔵書をかりて、読むことがあつたから。
「笑ひだしてしまつたのだ。君はヘドが吐けないたちぢやないか。君は何をたべても、あたらない。然し、君自身にも、毒はないね。君は蝮《まむし》ぢやないね」
 彼の笑顔はせつなさうだつた。私は彼の言葉が理解できなかつた。然し、彼が私に就て考へるやうに、私が私に就て考へることの必要を認めてゐなかつたので、私は彼に対しては、たゞ、黙殺、無言でゐるだけだつた。
 私は彼が自殺に失敗し、生き返り、健康をとりもどして私の前へ現れたとき、思はず怒つたものだつた。
「自殺だなんて、そんなチャチな優越が。おい、笑はせるな」
 彼の淋しい顔は今も忘れられない。
「知つてゐるよ。然し、ダメなんだ。俺は」
 然し、ダメなんだ、俺は。それは彼の周期的な精神錯乱のことであらうか。その意味だけではなかつたやうだ。彼は私ごとき者を怖れ、闘ふ必要はなかつたのである。彼が私に投影してゐたものは、彼の何であつたのか。然し、彼は、その錯乱のたびに、私への抵抗から死
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