、五月、五日であつた。私は省線に乗つた。切符の日附のスタンプが5,5,5,と三つ並んでゐたので、忘れることができないのだ。
私は酒をのまなかつたから、カフェーなどといふものへ這入つたことはなかつた。二度か三度、人に誘はれて小さなバーへ這入つたことはあつたと思ふが、こんな大カフェーは始めてゞ、然し午前中のことだから、人の姿は一人もない。何とも陰鬱、邪悪、強慾そのものゝ五十ぐらゐの主人であつた。蛇の感じで、地べたを這つてすりよる感じ、細い目が底光りをたゝへてゐる。きゝとれぬやうな低いしやがれ声で話しかけ、私の目をうかゞつてゐる。
支配人といふのは、このカフェーの支配人のことではない、と言ふのだ。当分はこのカフェーの支配人だが、自分の目的はホテルの経営にあるのだから、やがてはホテルの支配人で、ホテルとそこに所属するバー、それが理想である、と言ふ。
観光事業に趣味があるか、ときくから、口から出まかせに、ある、と答へると、では抱負があるか、述べてみよ、と言ふ。考へてみたこともないのだからこれには全く閉口して、仕方がないから白状に及んだ。
私はホテルの支配人に出世する意志はないのである。私はカフェーの支配人が望みであつた。タキシードかなんか着て(ボンボン先生はたしか年中エンビ服だか礼装してゐた)酔つ払ひの騒音の中で、松だかモミだか鉢植ゑの植物かなんかの彼方に、間抜け面でいとも厳粛に注意を怠らぬ顔付をしてゐる。誰が見ても、誰よりも馬鹿だ。こんな気のきかないヌカラヌ顔付といふものは人に具はる天性があつて、誰にもできるといふものでなく、私にはしごく向いてゐるのだ。私はひそかに自信をいだいて出向いてきたので、そこには少なからぬ抱負もある。抱負は何ぞや。
「私は虫歯が痛むときに、痛いと言へないこの商売が気に入つてゐるのです。会社につとめてゐるでせう。課長が私をよびつけて、君は朝から仏頂面をしてゐるぢやないか、何か不平があるのか、言ひ給へ、と怒鳴ります。すると私は、実は虫歯が痛いのです、と蚊の鳴くやうな声をだします。私は実際虫歯が持病で、この痛さには泣いてゐるのです。私は我慢がないから泣き面をします。然しです。カフェーでは私が泣き面をしても、課長みたいに仏頂面を気にかけるお客はありませんよ。常に黙殺され、無視され、バカのバカですから、私は虫歯が痛くても、痛くない顔付をして、心ひそかに悲しむのみです。だから、天分があるのです。私は虫歯が痛くても、このカフェーの鉢植ゑの植物の彼方に立つ限り、植物よりも無自覚に、虫歯の痛みをこらへてゐることができます」
彼はウハ目でチラと見上げただけだつた。如何なる感情も見せない水のやうな冷気であつた。
「どうすれば、店が繁昌すると思ふね」
私は全然ダメだつた。私は私とこの職業を結びつける雰囲気的な抱負にだけ固執して、一晩まんじりともせず、私自身を納得させる虫歯の哲理に溺れてゐた。店を繁昌させる秘訣に就ては考へてゐなかつたのだ。私は手ぬかりに気がついた。彼が私に求めることは、私が虫歯をこらへることではなく、店を繁昌させる秘訣であつたにきまつてゐる。
「美人ばかり集めることです。きまつてますよ」
と、仕方がないので、私は大威張りで答へた。私が威張つたのは、真理の威厳のために、であるが、彼は冷やかにうなづいて、
「それはきまつてゐる」
私は狼狽して、まつたく、のぼせてしまつた。私はその任にあらざることを自覚したから、履歴書を返してくれ、とたのんだ。彼はそれが当然だといはぬばかりに履歴書を返してくれたが、自分のもとめてゐるのはホテルの支配人たるべき人材で、カフェーの支配人などはとるにも足らぬ仕事だ、といふ意味のことを述べ、ホテルの経営はむつかしいものだ、とつけ加へた。それは私の軽率を咎めてゐるやうでもなく、彼自身の大きな抱負がおのづともれた一語であつたかも知れない。彼は目的を果したらうか。大いに成功したやうな気が私はするのだが、私はその後、当分の間、この男の幻影に圧倒されてゐた。それは彼が最後に至るまで水の如く無感情で、私に対して蔑むとか説教するとか、さういふ態度がなかつたせゐであつた。つまり私が自らの軽率、ひとりよがりの独り相撲に呆れ、嘆いてゐたせゐだ。
ところで私が家人にも友人にも内密にこのやうな就職にでかけた心事がどのやうなものであつたかといへば、たゞ、暗く、せつなかつたといふ一語につきる。このやうにしか生きられぬ私なのか、といふ嘆きであつた。落伍者気どりの軽快な洒落心などはなかつたものだ。
陰鬱、邪悪、冷酷な面魂の主人を見たそのとき、私が彼の人相に特別暗く身ぶるひしたのも、私が私を突き落さうとする現実の暗さの影を見たからだ。
青春は絶望する。なぜなら大きな希望がある。少年の希望は自在で、王者にも天才
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