持つてゐたといふのである。私の現実に彼自身の夢の実現を見て悲しく酔つてゐるといふことを。
そして彼は私に話すべく用意してゐた言葉だけを言ひ終ると、変にアッサリと立ち去つた。そしてもう私の身辺へ立寄らうとしなかつた。
実際バカげた青年だつた。
私にはお嬢さんの恋人どころか、友達だつてありはしない。彼はいつたい何を夢見てゐたのだらう? 私の身辺の何事から、こんな思ひもよらぬ判断がでてくるのだか、思ひ当ることは一つもなかつた。
けれども私は長島と白水社でフランスの本を買つて出たたそがれ、やつぱり見知らぬ青年によびとめられた。この青年は三十をすぎてゐるやうだつた。彼は私とちかづきになることを長らく望んでゐたのだといふ。
「十五分だけ」
彼は十五分に力をいれて言つた。十五分だけ自分と語る時間を許せと言ふのだ。私たちは喫茶店へはいつた。
彼の語つたことは、然し、彼自身の心境だけで、傍観者以外であり得ない無気力、マルキストにもなれなければエピキュリアンにもなり得ない、安サラリイマンの汲々たる生活苦が骨の髄まで沁みついた切なさに就てゞあつた。
彼は小男であつた。そして安サラリイマンの悲劇、傍観者の無気力、虚無に就て語りながら、然し彼は傲然と椅子にふんぞり返つて、およそ何物をも怖れぬやうな威張りかへつた態度であつた。たゞ、口べりに苦笑がうかんでゐたが、私をも刺殺するやうな横柄な苦笑であつた。
「君には自信がある。満々たる自信だ。君はいつも大地をふみしめて歩いてゐるやうだ。僕は君を見るたびに、反撥とあるなつかしさ、憎しみと切なさのやうなものを、いつもゴッチャに感じてゐたものだ」
彼はかう私をおだてるやうなことを言ひながら、益々傲然とふんぞりかへり、苦笑は深かまり、私を嘲笑するかのやうなふうでもある。彼はとつぜん言葉を切りかへて、
「僕は近々日本を去る。支那へ行つてしまふのさ。何物と果して訣別しうるかね」
彼は悠々と立上つて私たちにいとまをつげ、傲然と消えてしまつたものだ。
満々たる自信どころか、ひとかけらの自信、生きぬくよりどころのない私であつた。私の踏む足はいつも宙に浮いてゐたのだ。私は私自らが、人生を舞台の茶番の芸人にすぎないやうな悲しさ、もどかしさに、苦しめられたものだ。なんとも異様なむなしさだつた。彼等は私を嘲笑してゐるわけではなかつたらう。傲然先生の口べり
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