の苦笑も、彼はさういふふうにしかその親愛を表す手段を知らなかつたに相違ない。
 葛巻義敏なども、よそ目には最も幸福な人のやうに人々には思はれてゐたのである。彼は柔和な貴公子で、芥川龍之介の甥である。人々は彼が多くの麗人たちにとりかこまれ、いづれアヤメと思案中、さういふ多幸な憂鬱を嗅ぎだしてゐるやうだつた。ところが御本人ときては、ある令嬢に片思ひで、夜は悶々ねむられず、カルモチンをガブのみにして、寝台からころげ落ちてゐるのである。
 そして葛巻と私は、芥川家の二階の一室で、言ひ争ひ、幾夜徹夜したであらうか。私はプン/\怒りながら飜訳してゐる。彼は小説を書いてゐる。どちらもひどい速力なのだ。私はいつも暗かつた。
 私は思ひだす、あの家を。いつも陽当りの良い、そして、暗い家。戦争はあの家も小気味よく灰にしてしまつたさうだが、私の暗い家は灰にならない。その家に私の青春がとぢこめられてゐる。暗さ以外に何もない青春が。思ひだしても、暗くなるばかりだ。



底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
   1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「潮流 第二巻第五号」潮流社
   1947(昭和22)年6月1日発行
初出:「潮流 第二巻第五号」潮流社
   1947(昭和22)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
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