必要欠くべからざる根柢の一事は、たゞ、各人の自由の確立といふことだけだ。
自らのみの絶対を信じ不変永遠を信じる政治は自由を裏切るものであり、進化に反逆するものだ。
私は革命、武力の手段を嫌ふ。革命に訴へても実現されねばならぬことは、たゞ一つ、自由の確立といふことだけ。
私にとつて必要なのは、政治ではなく、先づ自ら自由人たれといふことであつた。
然し、私が政治に就てかう考へたのは、このときが始めてゞはなく、私にとつて政治が問題になつたとき、かなり久しい以前から、かう考へてゐた筈であつた。だが、人の心は理論によつてのみ動くものではなかつた。矛盾撞着。私の共産主義への動揺は、あるひは最も多く主義者の「勇気」ある踏み切りに就てゞはなかつたかと思ふ。ヒロイズムは青年にとつて理智的にも盲目的にも蔑まれつゝ、あこがれられるものであつた。私は当時ナポレオンを熱読したものだ。彼がとらはれの島で死の直前まで語つた言葉の哀れ呆れ果てた空疎さ、世にこれほどの距離ある言葉、否、言葉自体が茶番の阿呆らしさでしかない。私の胸の青春は、笑ひころげつゝ、歎息し、時には涙すら滲んだ夜もあつた。言葉にのみイノチを見る文学がその言葉によつてナポレオンを笑ひうるのか、ナポレオンが文学を笑ひうるのか、私には分らなかつた。
青春の動揺は、理論よりも、むしろ、実際の勇気に就てゞはないかと私は思ふ。私には勇気がなかつた。自信がなかつた。前途に暗闇のみが、見えてゐた。
そのころアテネ・フランセの校友会で江ノ島だかへ旅行したことがある。そのとき、私の見知らない若いサラリイマンに、妙になれなれしく話しかけられたものであつた。彼は私だけ追ひまはして、私にいつも話しかけ、私の影のやうにつきまとつて私を苦しめたものであるが、あたりに人のゐないとき、彼はとつぜん言つた。
「あなたには何人の、何十人のお嬢さんの恋人があるのですか」
私は呆気にとられた。彼は真剣であつたが、落着いてゐた。
「あなたは、あなたを讃美するお嬢さん方にとりまかれてゐる。私はいつも遠くから見てゐたのです。私は寂しくも羨しくもありますが、私の夢をあなたの現実に見てゐることの爽やかさにも酔ひました。あなたは王者ですよ。美貌と才気と力にめぐまれて」
彼の言葉はかなり長いものだつた。彼は私の友達になりたいのではなく、たゞ、私に一言話しかける機会だけを
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