にも自ら化して夢と現実の区別がないが、青春の希望の裏には、限定された自我がある。わが力量の限界に自覚があり、希望に足場が失はれてゐる。
これもそのころの話だ。私は長島と九段の祭で、サーカスを見た。裸馬の曲乗りで、四五人の少女がくるくる乗り廻るうちに、一人の少女が落馬した。馬の片脚が顔にふれた。たゞ、それだけのことであつた。少女の顔は鮮血に色どられてゐた。驚くべき多量の鮮血。一人の男衆が駈けよりざま、介抱といふ態度でなし、手を掴んで、ひつぱり起した。馬の曲乗りは尚くるくる廻つてゐるから、その手荒さが自然のものでもあつた。少女は引き起されて立上り、少しよろめいたゞけで、幕の裏へ駈けこんだが、その顔いつぱいの鮮血は観衆に呻きのどよめきを起したものだ。然し一座の人々の顔は、いたはりでなしに、未熟に対する怒りであつた。少女の顔にも、未熟に対する自責の苦痛が、傷の苦痛に越えてゐる険しさだつた。
無情も、このときは、清潔だつた。落馬する。馬の片脚が顔にふれる。実に、なんでもない一瞬だつた。怪我などは考へられもしないやうな、すぎ去る影のやうなたわいもない一瞬にすぎないのだから、顔一面にふきだしてゐる鮮血は、まるでそれもなんでもない赤い色にすぎないやうな気がしたものだ。
美しい少女ではなかつた。然し鮮血の下の自責に対する苦悶の恐怖は私の心を歎賞で氷らせたものであつた。引き起され立ち上つてよろめいて、すぐ駈けこんだ、それを取りまく彼方此方の一座の者の怒りの目、私は絶美に酔つた。
私達は小屋をでて、小屋の裏側へ廻つてみた。楽屋の口らしい天幕の隙間から、座頭らしいのが出てくるのを見たので、私の心は急にきまつた。私は近づいて、お辞儀して、座頭ですか、ときくと、さうだ、と答へた。
私はどもりながら頼んでゐた。私を一座に入れてくれといふことを。私にできることは脚本と、全体の構成、演出だが、その他の雑用に使はれても構はないとつけたした。
私の身なりは、さういふことを申しでる男の例と違つてゐたからに相違ない。私はそのころはハイカラで身だしなみが良かつたのである。彼は訝るといふよりも、むしろ、けはしく私を睨んでゐた。そして何を、と言ふやうに、たゞ二つ三つ捨てるやうにうなづいて、一言も答へず、歩き去つてしまつた。
私はまつたく狐につまゝれたやうな馬鹿げた気持であつた。むしろ不快がこみあげて
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