に悲しむのみです。だから、天分があるのです。私は虫歯が痛くても、このカフェーの鉢植ゑの植物の彼方に立つ限り、植物よりも無自覚に、虫歯の痛みをこらへてゐることができます」
 彼はウハ目でチラと見上げただけだつた。如何なる感情も見せない水のやうな冷気であつた。
「どうすれば、店が繁昌すると思ふね」
 私は全然ダメだつた。私は私とこの職業を結びつける雰囲気的な抱負にだけ固執して、一晩まんじりともせず、私自身を納得させる虫歯の哲理に溺れてゐた。店を繁昌させる秘訣に就ては考へてゐなかつたのだ。私は手ぬかりに気がついた。彼が私に求めることは、私が虫歯をこらへることではなく、店を繁昌させる秘訣であつたにきまつてゐる。
「美人ばかり集めることです。きまつてますよ」
 と、仕方がないので、私は大威張りで答へた。私が威張つたのは、真理の威厳のために、であるが、彼は冷やかにうなづいて、
「それはきまつてゐる」
 私は狼狽して、まつたく、のぼせてしまつた。私はその任にあらざることを自覚したから、履歴書を返してくれ、とたのんだ。彼はそれが当然だといはぬばかりに履歴書を返してくれたが、自分のもとめてゐるのはホテルの支配人たるべき人材で、カフェーの支配人などはとるにも足らぬ仕事だ、といふ意味のことを述べ、ホテルの経営はむつかしいものだ、とつけ加へた。それは私の軽率を咎めてゐるやうでもなく、彼自身の大きな抱負がおのづともれた一語であつたかも知れない。彼は目的を果したらうか。大いに成功したやうな気が私はするのだが、私はその後、当分の間、この男の幻影に圧倒されてゐた。それは彼が最後に至るまで水の如く無感情で、私に対して蔑むとか説教するとか、さういふ態度がなかつたせゐであつた。つまり私が自らの軽率、ひとりよがりの独り相撲に呆れ、嘆いてゐたせゐだ。
 ところで私が家人にも友人にも内密にこのやうな就職にでかけた心事がどのやうなものであつたかといへば、たゞ、暗く、せつなかつたといふ一語につきる。このやうにしか生きられぬ私なのか、といふ嘆きであつた。落伍者気どりの軽快な洒落心などはなかつたものだ。
 陰鬱、邪悪、冷酷な面魂の主人を見たそのとき、私が彼の人相に特別暗く身ぶるひしたのも、私が私を突き落さうとする現実の暗さの影を見たからだ。
 青春は絶望する。なぜなら大きな希望がある。少年の希望は自在で、王者にも天才
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