安吾武者修業
馬庭念流訪問記
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)塙《ばん》団右衛門
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)群馬県|多野《たの》郡
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立川文庫の夢の村
私たちの少年時代には誰しも一度は立川文庫というものに読みふけったものである。立川文庫の主人公は猿飛佐助、百地三太夫、霧隠才蔵、後藤又兵衛、塙《ばん》団右衛門、荒川熊蔵などという忍術使いや豪傑から、上泉伊勢守、塚原卜伝、柳生十兵衛、荒木又右衛門などの剣客等、すべて痛快な読み物である。子供たちはそれぞれヒイキがあった。私は猿飛佐助が一番好きであったが、剣術使いの方では主人公ではなしに馬庭念流《まにわねんりゅう》という流派にあこがれていたのである。
立川文庫の馬庭念流は樋口十郎左衛門が主人公である。けれども、この主人公の物語よりも、他の剣術使いの物語の中に現れてくる馬庭念流の扱われ方のほうが甚だ独特で面白いのである。
剣の諸流派の中で、馬庭念流だけが一ツ別格に扱われている。馬庭という片田舎の小村に代々その土地の農民によって伝えられてきた風変りな剣術がある。その村では村民全部が剣術を使う。むろん村民は百姓でふだんは野良を耕していることに変りはないが、かたわら生れ落ちると剣を握って念流を習っているから、それぞれ使い手なのである。
諸国の腕自慢の輩が武者修業の途中にちょッと百姓剣法をひやかしてやろうというので馬庭村へやってくる。野良の百姓に村の道場はどこだと尋ねて、この村の先生はクワの握り方と剣の握り方の区別ぐらいは心得ているだろうな、なぞと悪態をついて百姓をからかう。すると百姓がやおら野良から上ってきて棒きれを探して振りしめて、
「お前さんぐらいならオレでも間に合うべい。打ちこんできなさい」
というような挨拶をのべる。何をコシャクなと武者修業が打ってかかるとアベコベに打ちのめされて肥ダメへ墜落するようなウキメを見てしまうのである。
立川文庫の場合に於ては、一般に風変りなもの、たとえばクサリ鎌や小太刀や宝蔵院の槍など、別格視されるとともに、異端視され、時には敵役《かたきやく》に廻されたり負け役に廻されたり、あまりよい扱いを受けないのが普通で、子供たちの多くもクサリ鎌使いなぞは好まないのが普通であるし、また好まなくなるのが当り前の取り扱いを受けてもいるのである。ところが馬庭念流はそうではない。甚しく別格に扱われているけれども、常にひそかな親愛をもって扱われているようで、いわば万人がそのふるさとの山河に寄せる愛情のようなものが常にこの流派にからんで感じられるような気がするのである。馬庭念流を使う敵役なぞは出てこない。それを使うのは善良温和な百姓なのだ。頭ぬけた使い手には扱われていなくとも、どんな剣の名人もこの村で道場破りはできないのだ。
村の農民によってまもられ伝えられてきた剣法。日本の講談の中で異彩を放っているばかりでなく、牧歌的な詩趣あふれ、殺伐な豪傑の中でユーモラスな存在ですらある。
私は馬庭という里は架空の地名ではなくとも、百姓剣法馬庭念流はいわば講談作者のノスタルジイの一ツで、立川文庫の夢の村にすぎないのだと思っていた。まさに少年時代の私にとっても愛すべく、また、なつかしい夢の村であった。そして、夢の中でしか在りえない村だと思っていたのだ。
たまたま私は一昨年から上州(群馬県)桐生に住むようになり、郷土史を読むうちに、馬庭が実在の地名であるばかりでなく、馬庭念流が今も尚レンメンと伝えられ、家元樋口家も、その道場も、そして剣を使う農民たちも、昔と同じように今もそうであることを知って茫然としたのである。
今の呼び方では群馬県|多野《たの》郡入野村字馬庭。字である。戸数は二百戸ほど。高崎から上信《じょうしん》電鉄でちょッとのところである。
上州には今から千何百年前の石碑が三ツある。多胡碑《たごのひ》、山上碑《やまのうえひ》、金井沢碑と云って、いずれも歴史上重要なものであり、私にとっては一見の必要あるものであったが、呆れたことにはこの三碑がまるで馬庭をとりまくように散在していた。多胡碑の里から火事がでて馬庭へ飛び火したこともあるそうだ。馬庭の旧家|高麗《こま》さんは頭をかいて、
「隣り村の火事と安心して見物にでかけた留守に私の家の屋根が燃えはじめていました。上州のカラッ風は油断ができません」
そして、こう教えてくれた。
「私の父も念流の目録まで受けた人ですが、私は剣は使いません。馬庭で一番古いのが私の家で、その次に樋口家が移住して、ごらんのように隣り合って家をたて村をひらいたのだそうですが、そんなわけで私の家だけは無理に剣を習わなくてもよいのだと父が言っていました。他の家は必ず剣を習わなければならない定めになっていたのです。戦前まではそうでした」
一村すべて剣を使うということも架空の話ではなかったのである。樋口家の馬庭移住は天正のころ、織田信長のころだ。今から三百七八十年前である。したがって附近の三碑ほど大昔からひらかれた里ではなかった。しかし、樋口家が土着した瞬間から、この里は剣の里であった。野良を耕す人々の剣を使う里。そして今もそうだ。立川文庫の夢の里は昔そのままの姿で実在していたのである。
名人又七郎
例年の一月十七日が樋口道場の鏡開きで、門弟すべて参集し、また客を招いて型を披露するという。つまり寒稽古の始まる日だ。その終るのが三月十七日で、まる二ヵ月の長い寒稽古だが、昔からの定めだという。要するに農閑期でもある。そして重《おも》だつ門弟はとにかくとして、一般の里人が剣を習うのはこの期間なのである。
関東平野の一端が山にかかろうとするところ。倉賀野《くらがの》から下仁田《しもにた》をへて信州の八ヶ岳山麓へ通じる非常に古い街道。この街道筋には上州の一ノ宮や大きな古墳なぞが散在して、いかにも太古からの道という感が深い。
この街道をちょッと行って、小さな丘の陰、こんなところに道があったかと思うようなところで街道をそれる。するとキレイな川が流れていて、その川の向う側が馬庭なのだ。竹ヤブが多い。
道場の門をくぐると村の子供たちが群れている。そして門内にアメ屋、フーセン屋、オデン屋、本屋、オモチャ屋など七ツ八ツの露店が繁昌しているのである。全然村のお祭りである。道場びらきなぞという厳めしさとは全く縁のない村祭りの風景であった。それも門前でなしに門内に店が並んでいるのだから、田舎の子供の園遊会のようなものだ。道場がせまいので、庭で武技を行うのである。
念流の伝授以来二十四代もうちつづいて、里人すべてを門弟にしている旧家だから、大家族、大教祖の大邸宅を想像するのは当然だが、立派なのは道場だけで、実に質素なただの百姓屋である。ただの中百姓屋だ。
何百年の武の伝統と里人すべての尊敬をうけながら、終始一貫里人と同じ小さな百姓屋にただの百姓ぐらしをしてきたとは痛快じゃないか。これこそは馬庭念流というものの真骨頂であろう。まさに夢の里だ。道場以外は百姓用のものばかりで、どこにも武張ったところがなく、威厳を見せているところもない。痛快なほど徹底的にただの百姓屋である。村の旦那の風すらもないただの百姓屋であった。しかも、それにも拘らず、村をあげてのお祭りだ。門弟や里人の念流と樋口家に対する態度は、まさしく教祖や神人《しんじん》に対するそれで、村の誇りであり、彼らの生き甲斐ですらもあるように見うけられるほどだ。実質的にかくも大きな尊敬をうける教祖や神人がこんな質素な住居にいるのはこの里だけのことであろう。
樋口家は木曾義仲の四天王樋口次郎|兼光《かねみつ》の子孫である。次郎兼光の妹は女豪傑|巴《ともえ》だ。もっとも、樋口の嫡流は今も信州伊奈の樋口村にあって、馬庭樋口はその分家である。
足利三代義満のころ、まだ南北朝の抗争のうちつづいたころであるが、奥州相馬の棟梁に相馬四郎|義元《よしもと》という剣の名人があった。この人が後に入道して念和尚《ねんおしょう》と名を改め、諸国を行脚して剣を伝えて歩いたが、行く先々で鎌倉念流、鞍馬念流、奥山念流なぞと諸国に念流を残し、最後に信州伊奈の浪合《なみあい》に一寺を造って定着し、ここで多くの門弟に剣を伝えた。この浪合で印可皆伝をうけたものが十四名あって、その一人に樋口太郎|兼重《かねしげ》があり、これが馬庭念流の第一祖である。
三世のころ、上杉|顕定《あきさだ》に仕えて上州|小宿《こしゅく》へ移ったが、八世の又七郎|定次《さだつぐ》のとき馬庭へ土着し、ここから百姓剣法が始まるのである。今は二十四代である。
したがって、馬庭念流という独特のものは八世又七郎に始まると見てよい。彼はまた馬庭念流二十四代のうちで最も傑出した名人でもあったようで、念流本来の極意書が樋口家に伝わるようになったのも又七郎の時からである。
又七郎が馬庭に土着して道場をひらいたころ、高崎藩に村上天流斎という剣客が師範をつとめていた。どっちが強いかという評判が高くなって、ついに藩の監視のもとに烏川《からすがわ》の河原で試合することとなった。天流斎は真剣、又七郎はビワの木刀で相対したが、又七郎の振下した一撃をうけそこねて天流斎は即死した。天流斎のうけた刀と、又七郎の打ちこんだ木刀とが十字形に組んだまま天流斎の頭を割ってしまったので、これを十字打ちと伝えている。ちょうど宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で勝負を決したのと同じころの出来事である。
又七郎は諸方から仕官をもとめられたが一切拒絶して土に親しみ、独特の百姓剣法がここにその性格を定めたのである。又七郎が天流斎の頭をわったというビワの木刀が今も樋口家にあるが、ひどく軽くて、短い。宮本武蔵が重い木で五尺にちかい木刀を振りまわしたのに比べて、全くアベコベの木刀だ。近年、門弟の一人が振り廻して遊んでいるうちに石に当って折れてしまった。
「惜しいことをしたなア。若い者はノンキな奴ばかりで」
と四天王の老人が笑いながら折れた木刀を見せてくれたのであるが、別に惜しそうな顔ではない。むしろノンキな若い者を慈しんでいる笑顔であった。
類型絶無の剣法
立川文庫によると、野良から上ってきた百姓が棒キレを探してヘッピリ腰で身構えるので、この土百姓めと武者修業がプッとふきだしてただ一打ちにと打ってかかるとヒラリと体をかわされ、のめるところを打たれて肥ダメへ落ちてしまう。百姓剣法とはいえ、ヘッピリ腰の構えなんてあるはずがないと考えていたが、事実がまさにそうだから、おどろいてしまった。
これを馬庭念流で「無構え」という。他流の構えと雲泥の差がありすぎる。これを説明するには写真を眺めていただく以外に手がないのである。
右足を前へだして膝をまげ、左足を後へひいて踵を浮かして調子をとっている。これだけで存分に風変りなところへ、剣を横ッチョへ寝かせてブラブラ調子をとっているのだから、武者修業がプッとふきだすのは無理がない。まるで肥ビシャクを汲みあげたところといった構えである。
しかし、シサイに見物していると、これぐらい実用向きの怖ろしい剣法はないということが段々とわかってくるのである。彼らはいつも四五間の間をとって構えている。突然とびだして一撃で勝負を決しようというのだ。真剣勝負専門の構えなのだ。
突然とびだすに一番調法な構えである。両足を前後いっぱいに開いて膝をまげたこの構えは、疾走するランニング選手の疾走しつつある瞬間写真によく似ている。疾走する姿を定着させ、全身にハズミをみなぎらせて瞬間の突撃をもくろんでいるのである。横ッチョに寝てブラブラしている剣が突然敵の頭上へおどりかかるのだ。その一手である。突きもないし、横なぐりも殆どやらない。たぶん、真剣勝負とはそういうものなのだろう。馬庭念流には真剣勝負専門の一手あるのみで、余分の遊び手やキレイ事が全然ない。百姓剣法なぞとは大マチガイで、これぐらい真剣勝負に徹した剣
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