法は類がなかろう。
弟子が打ちこむと、先生がうけとめて、打ちこんだ木刀をさらにグッと押させる。打ちこむごとにこれをやらせる。打ちおろした力の強さ、押しつける力の強さをはかって上達を見わけるのだが、打ち下した木刀をさらに力いっぱい押しつける稽古など、真剣専門の稽古でなくて何であろうか。竹刀でパチパチなぐりッこの他の剣術とは類がちがうのだ。だから、高弟二名が真剣をふるって行う型は最も見事である。
江戸のころ、剣術使いをヤットー使いと云ったものだが、馬庭では今でもヤットーというカケ声を用いている。ヤットー。ヤヤヤ、トトトー。エー。オー。実戦さながらに勇ましい。面小手も昔のままの珍妙なもので、袴も普通の袴をつけ一々モモダチをとってから木刀を構える。試合がすんで礼を終えて後に至っても油断しない。自席に戻りつくまでギロリと目玉を光らせて敵の卑劣な攻撃にそなえていなければならないのである。これが馬庭念流の特別の心得で、これを「残心」と称し、残心を忘れて試合終了後にポカリとやられても、やられた方が未熟者だということになるのである。これも実用専門である。徹底的に実用一点ばりの剣法を農民が伝えてきたのだから痛快だ。しかもこの農民たちは剣をたのんで事を起したことが一度しかない。ただ先祖伝来の定めとして、田畑を耕すことと剣を学ぶことを一生の生活とし天命としているだけのことだ。
見るからに畑の匂いをプンプン漂わしている老翁たち。八十をすぎた門弟たちも数名いる。八十すぎの老翁たちはそろって剣法がそれほど上手ではないようで、五十、六十がらみの高弟から太刀筋を直されて、わかりました、とうなずいている。しかし七十余年も太刀を握って育ったのだから、いったん太刀を握って構えるや、野良の匂いのプンプンする老農夫が、突如として眼光鋭く殺気みなぎる剣客に変るから面白い。曲った腰がピンと張るのが実感されるのである。
私は剣をとった老翁たちの眼光が一変して鋭くなるのに打たれた。たしかに殺気横溢の目だ。しかも殺気横溢ということがこんなに無邪気であることを、これまでその例を知らなかった。実に鋭く、そして無邪気な眼。馬庭念流の眼だ。
この流儀は間をはかって突如打ちかかり打ちおろす一手につきるようであるが、その訓錬はゴルフの訓錬によく似ている。
ゴルフは固定しているボールをうつのであるから、ボールを最も正確に最も強く打つ最良のフォームというものが理想型としてほぼ考えうるのである。各人の体形に合せてその理想型を消化し会得しなければならないのだが、一流のプロになるには一日少くとも五百回打撃の練習をし、さらにコースをまわり、一日中ゴルフで暮して少くとも二十年、十四五でクラブを握って四十前後に最盛期に達し技術も完成すると云われている。しかし、技術的にはついにフォームの完成しないプロの方が多いそうだ。静止しているボールを打つだけで、そうなのである。
打たれまいと用心している人、そして隙あらば打ってかかろうとしている人に決定的な一撃を加えることは、それよりも困難にきまっている。馬庭念流が打ち下す一手に一生の訓錬をかけているのは少しもフシギではない。手だけが延びすぎた、アゴがでた、腰が浮いたと一打ごとに直され教えられて、八十の老翁が歯をくいしばって打ち下した太刀を押しつけている。それは他の道場の練習風景とはまるで違う。そして老翁の稽古が終ると見物の人たちからパチパチと拍手が起る。しかし老翁は例の残心の心得によってまだ目の玉を光らせ、相手を睨みつけながらモモダチを下して自分の席へもどる。そこでやっと元の百姓にもどって汗をふくのである。
「ウム。何々さんも腕が上ったなア」
と見物の中でささやく声がきこえる。腕が上ったとほめられてるのは頭のはげた六十五六の老人なのだ。
四天王筆頭の使い手がナギナタを相手に戦う。ナギナタの婦人は死んだ先代二十三世の妹である。四天王は立つや否や足をバタバタ間断なく跳ねてナギナタの足払いに備えている。そしてナギナタの足払いはそれによって概ね外すことができるけれども、時々ハッシと斬られて、
「参った。完全に、やられた」
ひどく正直である。私は剣道については知らないから、他流との比較を知るために、講談社の使い手の一人K君に同行を願ったのである。私は訊いた。
「他流でも、あんなことをやりますか」
「とんでもない。何から何まで類型なしです。ちょッとだけ似ているものすらもありませんよ」
間断なく足をバタバタ跳ねて走りまわりながら斬ったりよけたりしているから、てんで剣術らしい威厳がない。満場ゲラゲラ大笑いであるが、なるほどナギナタと戦うには、こんなことでもしなければ女の子に易々と斬り伏せられるに相違ない。イノチの問題だから見栄や外聞は云っていられない。ただもう実用一点ばりの剣術だ。
馬庭念流の門弟中で名高いのは堀部安兵衛だ。越後の新発田《しばた》から上京すると、馬庭が順路に当るから、自然念流の門を叩くようになったらしく、三年間内弟子の修業をしたそうだ。だから、高田の馬場の仇討も、無構えのヘッピリ腰でやった筈で、さだめし相手も面くらったに相違ない。
この村が一度喧嘩をした話
馬庭の里があげて一度だけ騒動を起しかけたことがあった。その相手は千葉周作とその門弟だ。
千葉周作がまだ血気のころのことらしく、当時彼は高崎在、引間《ひきま》村の浦八《うらはち》の家に泊り、そこで剣術を教え門弟を集めていた。集まる門弟の中には念流を破門された連中も加わっていて、馬庭念流を尻目に天下一の名人千葉周作の名を宣伝してまわった。あげくに千葉一門は伊香保温泉へ赴き薬師堂へ額を奉納したのである。
念流の人たちは千葉一門の行動をかねて不快に思っていたが、額奉納で怒りが爆発した。他郷の者が薬師堂に奉納額をかけるとは馬庭念流を侮辱するものだと、その額をひきずり下して念流の額をあげるために、師匠には隠して門弟一同馬庭を脱出、伊香保に向ったのである。赤堀村の本間道場からも六十余名の助勢がくる。また諸所の村里からも念流の門弟が伊香保をさして馳せ参じ、総勢七百余名になった。
伊香保には大屋と称する湯宿が十二軒あったが、その一軒の木暮武太夫《こぐれぶだゆう》旅館に千葉一党が宿泊し、他の十一軒は念流の一党で占領してしまったのである。
岩鼻の陣屋から役人が出向き、千葉の奉納額を止めさせて事は一たん落着したが、今度は千葉一党がおさまらない。引間村の浦八方に全員集合し伊香保へ攻め登る用意にかかる。伊香保の念流一党はこれを知って夜戦の符号や合図を定め山林中に鉄砲を構えて敵を待つ。この騒動が十日つづき代官が説得に一週間もかかってようやく伊香保の念流一党を解散帰村させることができた。結局本当の衝突には至らなかったのである。
これが馬庭の里人の仕でかしたたった一度の騒動であるが、これも念流と師家に対する尊敬の厚きがためである。馬庭の土と念流とが彼らの人生の全てなのだから、代官が説得に一週間もかかったのは無理もなかろう。千葉周作の講談では千葉一党が勝ったように語られている由であるが、これは全くのマチガイで、実際の衝突には至らなかった。そして馬庭の里人にとって千葉周作の講談ほどシャクにさわるものはないらしく、四天王も立川文庫の千葉周作をちゃんと読んでいるのである。
「その立川文庫に樋口十郎左衛門というのがありましたね」と訊いてみたら、
「ハ? 存じません。当家は代々十郎右衛門でして、十郎左衛門はおりません」
とフシギそうに答えた。立川文庫の馬庭念流は全然読んでいないらしい。そういう本の存在も知らない様子であった。作中人物その人は自分の物語を読まないらしい。自分の人生が念流そのものであり、それに尽きているらしい。夢の里の人物には夢みる必要がないのかも知れない。
源氏の剣法
頼朝が諸国の源氏を集めたころ、そのころの源氏の豪傑たちはいずれも各々の地で百姓をしながら武技の鍛錬を怠らなかった里人であった。後世の武士とは全く異り、いわば馬庭の里人の如きものが武士の原型であり、源氏の豪傑本来の姿でもあった。だから、一撃必殺を狙う剣法が農民の手で伝えられても、必ずしも怪しむには当らない。
しかし、この剣法が余りにも風変りで、また実用一点ばりであるから、私も考えこまずにはいられなかった。今日に伝わる剣法の諸流の中で、念流は最も古いものの一つであるが、源氏の豪傑の剣法がこんなものであったかも知れないと思ったのである。
樋口家には十数巻の奥義書があり、虎の巻、獅子の巻、竜の巻、象の巻、犬の巻なぞと名がついていて、これは一子相伝で、高弟といえども見ることのできなかったものであった。この巻物の中には非常にコクメイに術について説かれたものもあり、それはゴルフの教本のように基本を説いているものもあったが、私が何より興味をひかれたのは「虎の巻」の一巻、本名を「兵法秘術の巻」と称するものであった。
およそ念流の剣法とは何の関係もないものである。八幡太郎義家時代の兵法とすらも関係はなかろう。もっともっと古いものだ。なぜなら、この秘術とは全部が咒文だからである。たとえば、敵を組み伏せても刀が抜けない時には南方を向き次の咒文を三べん唱えると刀がぬけるなぞとある。また、敵と戦い刀が折れた時にはどんな仕ぐさをしてどんな咒文を何べん唱えると刀が手にはいる、というのもある。
敵を組みしいたり、敵を前においたりしてやおら向きを変えて、妙な仕ぐさをして咒文を何べんも唱えるようなノンキな戦争は、源平時代にもすでに有り得なかったであろう。
敵の目に姿が見えなくなるという忍術同様の秘法もあり、敵に殺されない咒文、矢に当らない咒文、神様をよぶ咒文、傷を治す咒文等々、およそ念流という実用一点ばりの術の精神にも反するものである。念流そのものとは何らの関係もないものだ。
しかしながら、このような仕ぐさや咒文が真に兵法の秘法として信じられ、実用されていた時代も確かにあったに相違ない。
たとえば神功皇后や竹内宿禰《たけのうちすくね》なぞの時代、犯人を探すにクガタチと称し熱湯に手を入れさせ、犯人なら手が焼けただれる、犯人でなければ手がただれないと称して、これが公式の裁判として行われていたような時代である。
当時ならば出陣に当ってまず咒文を唱えて神様をよび、事に当って一々咒文を唱え、雲をよび、風を封じ、刀が折れては敵の眼前に於て咒文を唱えて刀をよび、傷をうけては咒文を唱え、傷の手当をするようなことも実際に行われていたかも知れないのだ。
立川文庫によると、忍術の咒文は「アビラウンケンソワカ」というのであるが、念流虎の巻四十二の咒文もすべて「ソワカ」で終っている。もっとも「アビラウンケンソワカ」という咒文はない。その咒文は主として梵字《ぼんじ》のようなものと、少数は漢字を当てて書かれており、これにフリガナがついているのである。一見したところダラニ風だが、私にはむろん意味がわからない。
この秘法は人皇九代開化天皇の時に支那からわが中つ国に伝わり、十五代神功皇后がこの法を用いて戦勝したが、その御子の応神天皇があまりにも秘法のあらたかのため他人に盗用されるのを怖れ、暗記の上で紙をさいて食べてしまった。このためにいったん絶えたが醍醐天皇がこの秘法をもとめて支那へ大江惟時《おおえのこれとき》をつかわし惟時は朱雀天皇の世にこの書を探し求めて戻ってきた。しかし世上には偽書七十二巻を作って流布し、正書は誰にも見せなかった。八幡太郎義家が奥州征伐にでかけるとき、はじめて天皇が正書を義家に授与された、ということになっている。
むろんこの由来記をそのまま信じるわけにはいかないが、すくなくともこの秘法は念流の秘法ではない。実用一点ばりの念流の精神に全く反しているからだ。
何かの理由があって、念流の開祖念和尚の家に伝わっていたのかも知れない。念和尚は俗名相馬四郎義元と云い、奥州相馬の棟梁だったというから、この巻物を伝えるような何かのイワレがある
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