ど徹底的にただの百姓屋である。村の旦那の風すらもないただの百姓屋であった。しかも、それにも拘らず、村をあげてのお祭りだ。門弟や里人の念流と樋口家に対する態度は、まさしく教祖や神人《しんじん》に対するそれで、村の誇りであり、彼らの生き甲斐ですらもあるように見うけられるほどだ。実質的にかくも大きな尊敬をうける教祖や神人がこんな質素な住居にいるのはこの里だけのことであろう。
 樋口家は木曾義仲の四天王樋口次郎|兼光《かねみつ》の子孫である。次郎兼光の妹は女豪傑|巴《ともえ》だ。もっとも、樋口の嫡流は今も信州伊奈の樋口村にあって、馬庭樋口はその分家である。
 足利三代義満のころ、まだ南北朝の抗争のうちつづいたころであるが、奥州相馬の棟梁に相馬四郎|義元《よしもと》という剣の名人があった。この人が後に入道して念和尚《ねんおしょう》と名を改め、諸国を行脚して剣を伝えて歩いたが、行く先々で鎌倉念流、鞍馬念流、奥山念流なぞと諸国に念流を残し、最後に信州伊奈の浪合《なみあい》に一寺を造って定着し、ここで多くの門弟に剣を伝えた。この浪合で印可皆伝をうけたものが十四名あって、その一人に樋口太郎|兼重《かねし
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