安吾人生案内
その八 安吾愛妻物語
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何《いず》れ

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/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ジリ/\
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     不見転観相学  桜井大路

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 この写真(次頁の)から観た処では、額、眉、耳と何《いず》れにも非常に強く反家庭的な相が感じられる。特に顔全体の大きな特徴を成している鼻によくない相がある。この種の鼻を持つ人は、金を稼ぎ出す力は持っていても、常に散じてしまう人である。又、大変に短気であり、若くして家を捨ててしまう生え際をしている。
 尚、一番強く出ているのは常識的な人間ではない、という点で他人とは絶対に相容れない人であり、誰れにでも好かれる、という人ではないが少数の目上の人には大変に愛される人ではある。
 この人は孤独な人であるから、一人で出来る仕事を撰べば、四十台にして一応の名を成すが、四十五、六、七という時期は仕事と金の両面で内面的に悩むときである。五十台の初めは多少伸び悩むが、五十六、七にして大を成す人である。若い時から苦労とか経験とかいう点には遺憾がないから、それが仕事の上に生きてくるのである。額を観ても苦労が身についた人と云える。
 この人の四十台までを災いしたものは、その大部分が家庭的問題である。尤も家庭的に種々煩雑な点は一生涯を通じてのものではあるが、四十台以後は非常に勢い盛んな時であるから、それを押し隠してしまうのである。しかし、年と共に環境の寂しさが増すという点は、特に附言しておく。
 性格としては他人には大いに良く、義気もあるが、又一面、非常に細かく物を穿鑿する癖もある。所謂、外面がよく内面の悪い人である。言動は派手で勇ましいが、内心では常に細心の注意を怠らない人でもある。
 人を大勢使うという人相ではないが、賑やかなことが大好きな人である。
 長生きをする吉相もあるが、恋愛をすれば必ず苦労する相をも併せ持っている。
 最後に総括すれば、善悪二相が極端に現れ、二十四五、三十二三、三十七八には手痛い苦しみをし、これからも紆余曲折の生涯を辿る人ではあるが、仕事は立派に成しとげ、世間のためになる人物である。しかし孤独であるが故に家庭的ではない。是非一度実物に会ってみたい興味を覚える。
[#ここで字下げ終わり]

          ★

 私が徹夜の仕事をしてフラフラしている朝方にオール読物の廻し者の写真師が来て、易者用の写真をうつします、という。
 写真をうつすに身ダシナミが大切なのは見合写真と相場がきまったわけではない。我々の場合は特に例外なく人目にさらすための写真だから、身ダシナミは云うまでもなく、技をこらしポーズをつくり、大いに衆目をだまさなければならないのだが、そういう心得については欠けることがないのだけども、一度も実行したことがない。写真屋来るというので、顔を洗い、ヒゲをそり、着物をきかえたタメシがないのである。たった一度文藝春秋誌の何とかの百人という写真の時だけ、ハダカで仕事をしていたところ、流れる汗をこらえて着物をきるというムリをした。ムリのおかげでわが生涯にたッた一度のマトモの写真ができたのである。心がけ、というものは日ごろ心得があるだけではダメなものだ。実行しなければ意味をなさんものである。
 易者に見せる写真だというから、天性の麗質を強いて現す必要もないが、せめて顔を洗い、目を涼しくして、頭脳メイセキの片リンぐらいのぞかせる心得が必要であったようだ。あいにく徹夜の仕事を終えたところで、アンマの到着を待つところへ、アンマサンの代りに写真屋サンが一足先に到着した次第であるから、アンマの先着者のために顔など洗うわけには参らん。しかし、アンマの方がおくれたために、アンマにもまれつつある写真でなかったのがまだしも取柄であったろう。
 それにしても、この写真には、おどろいたな。死刑囚だね。
[#易者用の写真(fig45923_01.png)入る]
 死刑囚の閑日月としか見えない写真に、良いような、悪いような、良いような、その物ズバリ的なところもある目の肥えた判断を下した桜井さんは相当な手腕家だな。
 彼はこの写真の主《ぬし》の職業をどう考えたであろうか。この写真の主が私であることは、たぶん知らなかったろうと思う。
 そして、写真を見せて身の上判断を依頼したのが文藝春秋記者であり、それが読物に用いるためであることまでは分ったが、いかなる内容の読物だか分らないし、写真の主の名も身分も教えてくれないとすると、彼はこの人物の職業身分を自分で考えなければならないし、その点に関して一応の推測が先立つ必要があったと思う。
 この写真からみると、これを現に犯罪に関係ありと見たてる。現に盛運の相ではない。雑誌がとりあげる人物だから、ナニガシの人物らしいが、易者が顔を知らない所を見ると、時の人にしても、大物ではない。
 現在、こういう相貌の閑日月をしている人物で話題になりそうなのは、モグラ族である。徳田、野坂中尉から下は伍長、上等兵に至るまで近ごろは地下にくぐったから、モグラの一味かも知れん。
 しかし、アベコベのモグラもいる。右旋性左旋性というものは万事にあるもので、モグラの運動にも二ツの相異った本能をもつモグラがあるのだ。単行本で盛大に稼ぎつつ敗戦後一貫してモグラの運動をつづけている参謀がいるしその同族同類もいる。
 パージ族というのもあるが、パージ族というほど育ちの良いところはないから、とにかくこの閑日月は浪人の風格であることは確かなようで、すると、官庁か大会社で悪いことをしてクビになった奴かなア。しかし、単に時の罪人なら新聞紙上で顔にナジミがあるだろうし、その身の上判断なんてものを雑誌はたぶんとりあげない。すると、目下、浪人、とにかく理由あって、世を忍び、目下、苦労してることはタシカだなア。
 技術家的なところもあるが、技術家も原子エネルギーの天才からスパイ、文士に至るまでいやがるし、モグラの技術家は日本ではあんまりきかないが、するとアプレゲールの政治家かも知れないな。するとアシダ・グループとかヤミ成金グループの参謀かも知れん。没落した財産イントクの高利貸、ヤミ社長。目下キンシン中の教祖かなア。それもある。
 とにかく、写真の顔だけで純粋に判断することは不可能であろう。職業、身分とか現在の社会的地位というものは、顔だけの写真では分らない。実物を見ればかなり分る。実物を見る代用としては依頼者の身分と用件と依頼ぶりから想像せざるを得ない。
 人相、骨相からだけの純粋な判断に先立って一応職業、身分、現在の社会的地位というようなものに当りが必要に相違なく、そのような当りの必要があるということの方が易断の合理性や科学性をも証しているのであろう。顔や手を一目見るだけでズバリというのは、いかにも凄味があるようだが、左程にズバリの先生が一生易者にすぎんとはバカげた話で、現在の依頼者の職業身分に当りがつけば、あとは人相骨相等ににらみ合せて公約数的に身の上、性格等の判断をわりだすのは不可能ではなく、公約数の算定法は相当に合理的でもありうる筈のものであろう。
 私は易断には不案内だが、人間を性格的に観察することは文学をする者にとっても甚だ重大なことであるから、観察ぶりも似たようなものだろう。
 ただ文士は易断する必要はない。結論をだす必要はないし、ここに二者の相違があるのだが、易者とちがって、文士は結論がだせないのである。
 まず文学上の性格判断というものは、性格に先立って、万人は同じもの、同じ可能性をもったもの、というのが常識として潜在しているものである。
 性格は、可能性の多少に属しているだけのものだ。可能性の多少は、その人の一生に、必然的に現れてくるものではなくて、環境や偶然に左右され、諸条件に相応するものだ。
 犯罪の弁論だの判決というものも、ここまでは文学同様常識であり、その上に成り立っているものであろう。
 文学は可能性の探求である、と一言にして云いうるかも知れないが、文学にもいろいろ流儀があって、性格の可能性を探す人もあろうが、むしろ人間の可能性ということの方が大事であり主流と申すべきであろう。
 性格の可能性ということならば、それが環境や偶然の諸条件に支配されるにしても、性格に内在する可能性の多少が、諸条件に積極的に作用する力もあって、そのような必然的なもの、既知的のものは、文学上の探求と関係しないものである。医学や法律なぞが、それに応ずる薬とか、療法とか、罪の裁定とか、をもとめる土台となるかも知れぬが、文学は探求でもあるが試みでもあり、薬の量を定める土台にもならないし、それ自体に解決を持たないのが普通である。
 平凡人に諸条件がかかった場合――むしろこの諸条件に重きがおかれる。
 性格に重点をおけば、可能性の多少ということは、肉体的に云えば、まア病気の多少、病人をさすことに当るかも知れん。
 文学の方は平凡人、つまり、普通の健康体がむしばまれて行く可能性、いかなる条件があって、かかる病人となるか、その社会悪というものが考えられ、病人の対策や病気の治療が問題ではなくて、諸条件とか社会悪というものへの反撥や、正義感が、文学の主たる軸をなすもののようだ。したがって、人間自体に関する限り、文学には解決や結論がない。いつまでたっても、常にあらゆる可能性が残っているだけの話なのである。
 だから文士は、人間の性格についての心得は当然必要だけれども、性格に主点を定めて人生を見ることが少ないし、その文学活動に於て易断を行うことはないものである。
 易断は性格判断でもある。文学と易断はその点ではまるで違ったものなのである。

          ★

 たとえば、反家庭的とか、家を捨てる性格というものは、文学上の問題とはならない。家庭に反せざるを得なかったこと、家をすてざるを得なかった条件が問題となる。必ず家庭に反し、必ず家をすてる人間というものは存在しないのである。
 私が若くして家をすてたのは事実だが、反家庭的かどうかは疑わしいし、家をすてる必然性も疑わしい。金をよく散ずることも事実だが、これも性格であるか、思想であるか、にわかに判じがたいところで、私が思想的に蓄財する可能性は少くないのである。また、私の散財が思想的な結論からきていることも云えないことはない。性格と思想が同じものだということはウソである。相反する思想を所有することはできるが、相反する性格はそうはいかない。
 同一人が左右両思想のいずれかへ走り易いという性格はあるが、この場合の左右というのは性格に無関係な思想上の左右であるか、蓄財か散財か、家庭的か反家庭的か、ということは性格として相反する左右であるが、思想としては同一人がいずれへ走る可能性もあることで、私がにわかに蓄財家になっても別にフシギはないのであるし、いつでもなれることなのである。あるいは、性格とか思想というよりも、意志の問題かも知れない。私はむかし薬品中毒したが、今はそうではない。中毒者の性格ということも一応考えられるだろうが、実際は意志が左右する問題であって、意志は性格よりも後のものだ。もっとも、意志することも一つの性格だという見方があるかも知れないが、すると意志以前は何と云うべきであろうか。
 徳川家康は五十を越し六十ちかくなっても、にわかの大事に会うと、顔色蒼白となり、手の爪をかむクセがあったという。関ヶ原の時、戦闘開始するや、秀秋の裏切りがハッキリするまで形勢全く彼に非で、金吾の奴にはかられたか、と蒼ざめて爪をポリポリかみつづけていたという。
 こういうところは今日の医学では小心者の精神病者の性格である。ところが家康という人はにわかの大事に会うとテンドウして蒼ざめたり爪をかむけれども、その逆上コンランを押し鎮めて後には、周到細心、着実無比の策を施し、眼をはたら
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