女にとっては、献身が結局最後のそして最高の商品価値をなすものなのである。
男女同権などと称したって、経済的に女が男に従属する限りは、どうにもならない。男女共学も結構、男が女をエスコートする風習の移入も結構。男女の外面の生活の形式がどう変ろうと、経済的に女が男に従属する限りは、結局、男が最後に選ぶ女の美徳は献身ですよ。
同じ職場で働いていて、恋愛時代は経済的に独立し合っていて、男の方が女の方にサービスするような恋愛時代がつづいても、結婚して女が男に経済的に従属したならば、愛情の自然の発展が献身に高まらないと、いつかは男は他の女の献身へ走ってしまう。
女房に献身のある限り、オメカケの容姿の美しさ、若さ、天性の娼婦性、性愛の技巧等が敵に兼ね具わっても怖るるに足らぬが、オメカケに献身があっては、女房もダメである。特に、忠義と献身をとりちがえている女大学の優等生は、理論的にいかにオメカケを撃破する力があっても、実質的にオメカケを撃破することは不可能なのである。
経済的に女房を従属せしめている亭主は、女房の献身に対しては人生唯一の己れの棲家をそこに見出しているもので、本当に己れの城であるという安心が、ワガママ放題のブッチョウ面となって女房に対するのだ。女房の献身が骨身にこたえて安心できるほど、ワガママでブッチョウ面になり易いものだと云うことすらできよう。
男がよその女にサービスするような関係は、心配はいらないものだ。男に経済的に従属する女というものは、美や技巧で長く男をひきとめることはできませんよ。美も技巧もいくらでも目移りし易いものだし、男にサービスさせる要素がある限りは、いずれは崩れるものにきまっている。
外によく、内にわるい、ということは、男が家庭的でないという意味を現してはいない。女房が経済的に男に従属する限りは、むしろ男の家庭へ回帰する正しい感情が内にわるくなるものだと見てよろしいのだ。
まア、そのように女房も商売であるような夫婦関係では、女房が娼婦的で献身的であるのに越したことはない。
だから、家庭的であるか、ないかは、女房との相対的なもので、孤独であるが故に家庭的でないというのは、正しい云い方ではない。人間は孤独なものだ。孤独な人間ほど、常に「家」に回帰したがる郷愁に身を切られるのが自然で、それに対して骨身にこたえるのは女房の献身だということができよう。母にもまさる献身が女房にあるなら、何をか云わんや。私の女房はそのような献身をもっているから、私が家庭的でないことは有り得ません。
浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。
孤独な人間は、浮気であるが、本当に女に迷うなどゝいうことはない。そして、惚れることはさめやすく、迷うこともさめやすく、いたわり、いつくしむことだけが長いのである。たとえそのイタワリやイツクシミが逆なブッチョウ面となって現れるにしても、それはそういうワガママをしうるのが自分の本当のウチであるアカシなのである。
言動はハデで勇しいが、内心では常に細心の注意を怠らないというのは、たしかに私の特質であろう。ちょッと異例的に細心メンミツである。しかし、こまかくセンサクする、という癖はどうだろう。あることについては特にそうだが、あることについては全然そうでない。つまり、私は物にコル性質であるが、コルというのは、あることにだけセンサクすることで、反面他のことにはてんでセンサクを怠る意味である。人生万般に万べんなくセンサクするようなコリ屋はないものだ。図抜けて一事にセンサクし、かなり永続するのをコルという。
長生きの吉相があるとは有りがたいが、恋愛すれば必ず苦労する相も併せ持っているとは、いささか手きびしいな。
しかし、そう苦労もしませんよ。恋愛して本当に苦労するのは第一回目の一度だけだね。その時は、はじめてのことで、その道に不案内だからコンランは益々コンランを重ねるし、そのコンランの時間は甚しく長く、私の場合約五ヶ年かかったな。
何度恋愛しても、一時的にコンランし、夜もねむれないほどの苦痛になやむのは、たしかに同じことだけれども、だんだん時間的に短くなり、一ヶ月、一週間、三四日と、ひどくちぢまるものだ。もう、こうなると、恋愛即浮気で、ほとんど、とるに足るものではなくなってしまう。
ただ我身をかえりみて云えることは、いつまでも浮気ッぽい癖だけはどうにもならないだろうと云うことだ。意識的にそうである一面もある。すべては、ひどく、メンドウだ。けれども敢てメンドウを辞さないようなムリな一面もたしかにあるが、それは商売上の慾念や、商売意識からのものだろう。まるで商売熱心にかこつけるようだが、そういう言いわけの意味はミジンもなく、第一が天性浮気ッぽい性、第二が時にひどくメンドウくさくて敢て辞さないようなことがあるのは商売意識のせいもある、というだけのことです。
云いかえれば人生はひどく退屈だし、浮気なんて特に退屈千万で、いわばムリして女にサービスするようなバカらしい空虚な時間であるが、何が一番ハリアイがあるかというと、とにかく商売だけだ、ということだけはハッキリ云えます。
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死刑囚の閑日月と云うような妙テコリンの写真から、とにかく、こういう判断を下した桜井さんは、相当健康で合理的な判断力がある方で、神がかりや邪教的な要素が少い文化易者と見立てることができよう。
文春記者の語るところによると(今きいたのだが)桜井さんは本人に会って声をきくと判断し易いと云って、写真だけではうまく出来ない理由としたそうだ。
声をきいてみたい、というのは、たしかにその通りだろうと思う。私も声や声によって現される言葉には、その人間が現在位置している場所、つまり、職業とか身分地位というようなものを綜合的によく具現しているに相違ないからである。声にはその人間の確信も信念もこもるものだし、その声を分類し、声の裏にかくされたものや、言葉の意味が彼の心からどの程度の軽重さで発せられたかも分るものだし、それは私たちだって、桜井さんと同じように相手の声を読むものです。
若い青年の議論が、どの程度彼の身についたものかは、声で一番よく分るものです。どの程度の信念か、それも分る。まア、私たちには私たちだけの必要があってのことだから、声を判断に利用するのはその程度にすぎないけれども、職業によって利用するにはたしかに声は大切で、易断の方では私が声を利用するのと別な角度や方向があるに相違ないことは想像ができる。
声をききたいという桜井さんは、益々易断の合理主義者と云うべきかも知れない。銀座にふさわしい易者で、文化人に好評を博す素地ある人であろう。
しかし、その人の一生を本当にうごかすものは性格ではなくて、環境や偶然でもあるし、又、さらに、意志や思想であるが、それも偶然や環境等の諸条件の支配をまぬがれることはできない。
易断に何が一番必要かと云えば、過去をよく当てるというのは単に易断の前座的なものにすぎないもので、さりとて、その未来を当てるための占いは健全で合理的な易者のつつしむところと致されねばなりますまい。
目下沈んだり隠れたりしている彼の長所をかきたて、彼のより良くより強い信念とか、逞しい意志などをひきだすエニシとなり、彼のより良い人生のために職業上の技術と善意とを役立ててやることではないでしょうか。
あなたのような合理的で健全な易者は未来を占うことの愚かしさを知り、人々のよりよい未来のために正しく諸条件を判断してやり勇気を与えてやるために職業上の技術をつくしてやるべきでしょう。
その人の意志と諸条件への正しい判断によって、未来はいくらでも変るものです。そうではないでしょうか。とにかくあなたは健全な易者ですよ。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第六巻第一二号」
1951(昭和26)年12月1日発行
初出:「オール読物 第六巻第一二号」
1951(昭和26)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※初出編集時に撮影された写真は、旧著作権法の規定により、保護期間を過ぎていると判断し、収録しました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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