いう安心が、ワガママ放題のブッチョウ面となって女房に対するのだ。女房の献身が骨身にこたえて安心できるほど、ワガママでブッチョウ面になり易いものだと云うことすらできよう。
男がよその女にサービスするような関係は、心配はいらないものだ。男に経済的に従属する女というものは、美や技巧で長く男をひきとめることはできませんよ。美も技巧もいくらでも目移りし易いものだし、男にサービスさせる要素がある限りは、いずれは崩れるものにきまっている。
外によく、内にわるい、ということは、男が家庭的でないという意味を現してはいない。女房が経済的に男に従属する限りは、むしろ男の家庭へ回帰する正しい感情が内にわるくなるものだと見てよろしいのだ。
まア、そのように女房も商売であるような夫婦関係では、女房が娼婦的で献身的であるのに越したことはない。
だから、家庭的であるか、ないかは、女房との相対的なもので、孤独であるが故に家庭的でないというのは、正しい云い方ではない。人間は孤独なものだ。孤独な人間ほど、常に「家」に回帰したがる郷愁に身を切られるのが自然で、それに対して骨身にこたえるのは女房の献身だということができ
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