、家庭的問題かも知れんからである。易断は万事かくの如きもので、当っていると思えばみんな当っているし、当らんと思えばみんな当らん。
 一人ポッチということは家庭の支えを失っている点では完璧な家庭的問題で、これに災されて四十までメが出なかったというのは、そう思えば、そうなるだろう。もっとも、メが出たときも、同じように一人ポッチであった。
 文芸批評家が私の作品や一生を論ずるには、どう云うだろうか。ドストエフスキーの場合には家庭問題ということが彼の作品や生涯を解くカギの一ツとなってるようだが、しかし、それはドストエフスキー自身が手紙や文章の中でそれを言いたてているせいもあるだろう。本人が言いたてたって、一向に本当ではないものである。だから私が家庭問題に煩わされた顔を一度もしなかったり、一度も書かなかったにしても、これまた信ずるに足らずと見たところで、その論者の立場に不可があろうとは思われん。
 ただ家庭的に煩雑だというのは当らない。私個人の立場として家庭的に煩雑で、家庭のことまで気にかかるのは時にやりきれんと思うことも確かにあるが、他の人や、他の家庭にくらべて、私の方が煩雑だという比較になると、桜井さんには悪いが、これだけは完全にそうでないようである。しかしながら、主観的に云った場合に、私が家庭を煩雑に見ていることは確かで、特に年とともに環境の淋しさが増すという点は私も同感である。これだけは、それ以外にどうにもならないものを確信せざるを得ません。
 桜井さんは、どういう相を根拠にされたのか知りませんが、四十までウダツがあがらず、四十台でともかく名をなす、という点は、その通りでした。
 別にアゲ足をとるツモリではありませんが、二十四五、三十二三、三十七八で手痛い苦しみをしたというのは、すこしズレています。すこしズレるというと大体当ってるようだが、実は二三年ずつズレていて、二三年ズレるとこの間隔では最大限にズレたことになってしまう。
 六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ/\ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。こう申したとて、桜井さんの易をどうこう云うわけではなく、このタイプの人間ならこのようなことが手痛い出来事で、そういう出来事に会うとすれば何歳ぐらいという算出以外にヨリドコロはないと
前へ 次へ
全14ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング