思うが、あいにく私の半生は全然世間並のところがないから当り様がないだけで、桜井さんの手腕の問題ではない。当る方がおかしいのだ。こういうものは、むしろ当らない易の方が、全局的に見て、その人の全貌をつかむ合理性を含んでいると思うのである。
六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。
十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。
二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。
二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。
四十四が精神病院入院の年。
こんな常軌を逸した異例の人間の一生は、公約数から割りだせる筈はないし、そんな異例なところまで易が見破る必要はないものなのである。
むしろ、これらのことが当らなかったのは咎むべきことではなくて、アベコベに、四十までウダツがあがらず、ともかく四十台で名をなしたというのは、人相骨相に根拠があって判明したのですか。もしそうなら教えてもらいたいものだ。しかし思うに、桜井さんは諸般の依頼条件から考えて、写真の主を戦後派と見ての推断ではないかと思う。そして、そのようにして推断し、誤りがなかったということは、彼の易断が相当健全な常識の上に立っていると見ることができ、私はその方を信用するのである。私は神ガカリ的な易断や、邪教的な暗示ぶりをとらないのである。
性格として、外によく、内に悪い、というのは、当っているが、しかし、これは当るのが当然だろう。まア人間の九割ぐらいは、外によく内に悪いのが当然だし、特に頭を使う商売や人間関係の複雑な世界に政策商略的な生き方をしなければならない人間は、外によく、内に悪いのが自然で、内に悪いのが一種の休息と目してよかろう。気を使わずにワガママにふるまえるのは自宅だけで、内に悪いというのは、自分のウチだけは安心して自分のもの自分の世界だという気持の現れで、内に悪い方が親しさのアカシと見た方がよい。
本当に仲がわるくて内にわるいのは、外によく内にわるい、という意味の正当なことではなくて、異例のことだ。内に辛く当る
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