たことなんか一度もありませんでしたよ。
 しかし、これは桜井さんの目ガネちがいではありますまい。性格や身の上の公約数をさがして行くと、そうなるのが自然で、人生の指針が易断で間に合う人間にはそれで間に合うものであるし、桜井さんの公約数のだし方にはソツがなく、その限りに於て相当合理的で、易者としては一級の見巧者と申せよう。
 はじめ記者がこの写真を持参した某易断所は、写真の易はダメだとお叱りを蒙ったそうであるが、おめず臆せず堂々とやってのけた桜井さんは、自信も立派だが、たしかに巧者でもある。
 人と絶対に相容れない、とか、少数の目上には深く愛される、というのは易者の方では常套の言い方らしく、それがある種の人々には却ってピンとくるらしい様子がよく分るけれども、その云い方も易断の弱点の一ツであろう。こんな風に云うのは、どうだろう。
「己れを恃《たの》むのも結構だが、大きに怖れも知らなくちゃアいけねえな」
 私は時々こんなことを云って若い人にイヤガラセを云ってやる。
「マジメにやれば誰かが見ていてくれるかも知れないが、能がなければ、マジメなほど救いがねえや。マジメにやれば見ていてくれるというのは、バカ同志の共同戦線かなア。どッちか一ツをハッキリと選んでやりなよ。二ツは一ツにならねえや」
 これは易断ではない。酒に酔っぱらッたときの酒の肴たる年若き人物への一場のクンカイの如きもので、したがって甚だ良い気なものであるが、同時に、相手にクンカイをたれているのか、自分にたれているのか、そのへんの区別アイマイモコたる悲哀がこもったところもあるようだ。
 かかる一場のクンカイも、これまた人生の公約数的な怪味を帯びているけれども性格よりもいくらか思想性によりかかったところがあって、やや高級な説得力があるらしいが、それにしてもドストエフスキイの小説中に現れるノンダクレのセリフ以上の名言卓説ではない。孔子サマ、ヤソサマの大教訓にヘダタリのあること十五万里。ただし、ドストエフスキイのノンダクレにしても私にしても、自らモグリの言説であることには重々心得があって、決して大教祖を志しているような怪しいコンタンはないのである。
 私の四十台までを災いしたものは家庭的問題である、というのは、全然一人ポッチで放浪のみしていた私には全く当らないようであるが、全く当ってもいる。なぜなら全然一人ポッチということも
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