。そういう先生の心境は、菊乃さんに対するこまやかな愛情にあふれ、いかにも老いたる童子の感あり、虚心タンカイ、ミジンも汚れがない。見る者の心をあたためる風景であろう。
 先生の菊乃さんへの溺愛ぶりは、いかにも手ばなしの感で、大らかでもあるし、マジメでもある。思うに先生は生涯順境にあって、邪心を知ること少く、いかにも無邪気な人であるようだ。ハタから見れば、親しみ深く、愛すべき人であろうと思う。
 しかし、他人同志の関係ではなく、先生と切実な関係に立った者には、どうであったか。先生の老後の生活問題が切実であった如くに、菊乃さんの生活問題も切実であったにきまっています。
 老後といえば、芸者というものは、若い時から甚だ切実に老後を考えているものです。それは花聟や花嫁を配給される家風になれた人々が、若い時に老後を考える必要がなく、目先の甘い新婚生活の夢でいっぱいで、事実に於て概ねそれで一生が間に合うのに比べて、大そうちがう。彼女らには老後について一ツも約束されたものがない。
 塩谷先生は死水をとってもらえば、それで足り、それ故に菊乃さんを得ることによってすでに安定を得た老後であった。しかし、先生
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