。
しかも、先生の論理によれば、芸者という賤の女が自分のような学者の妻となり、古の殿サマの一族の前へでられるのだから幸せも極まれり、というのであるから、彼女の老後の如きは全然問題ではないらしい。
「実に菊乃は唐人伝奇中の人物である」
と仰有る。
つまり芸者ともあろう下賤の者が自分のような大学者の妻となり、古の殿様の謡曲の席に同席するに至ったのが、唐人伝奇中の人物に当るという意味であるらしい。ウヌボレの無邪気なのも結構であるが、当の菊乃さんにとって、このウヌボレの無邪気きわまるものが、どう響いたであろうか。暗澹たる心中、察するに余りあるではないか。
先生の菊乃さんへの愛情は一途なものであったろうが、芸者たりし故に賤の女と見、自分の妻となったのは名誉この上もなく、死すとも瞑すべきであるとなすような考えも、これまた牢固たる先生の本音であり、しかも、それすらも愛情のアカシであり、ノロケのタネであった。
自分の愛がいかに高く深いか。それを証するものが、この賤の女をわが女房としてやったことである。この一事こそ至高の愛の証拠であり、お前は唐人伝奇中の人物、死しても瞑すべきではないかという。
愛されることが、口惜しく、癪にさわり、腹が立ち、我慢ができなくなるのが当然ではありませんか。憎悪にかられるのが当然でしょう。しかも当の本人は、自分が恋人をこの上もなく傷つけているのが分らないぐらい無邪気なのだ。実に人々はそれを彼の無邪気さと云い、彼の底なしのウヌボレ。額面通り大先生が賤の女を愛すとはエライことだ、汝幸せな女よ、と言うであろう。そして、彼の一人ぎめの大そうな名誉が自分に配給されてるそうだが、切実な老後に対する保証は一ツもない。
それというのも、自分が彼の一筆を十七年間も肌身はなさず持っていたなどゝ云いだしたのが事の起りであると思えば、要するに彼によって救われ、安定を与えられ、死しても瞑すべき名誉を与えられ、いわば、先生の無邪気というもののイケニエにあげられた観あるのも、身からでたサビである。誰を恨む由もない。
切実な生活問題が解決し、生活の安定を得たのは先生だけで、菊乃さんは救われもしないし、安定してもいないのだ。
集まる門下生は先生同様無邪気で、単に快く王様をかこむ雰囲気にとけこむだけであったろう。先生の一人ぎめの晩香になりきって見せ、先生が思いこんでいるように、先生によって救われ安定を得た賤の女として、しかも古の殿様との同席にも堪えうるような利巧者になりきって見せ、満足の様子もして見せなければならぬ。こういう生活の負担がどんなにやりきれないものか、先生には全然お分りにならないのだから、助からない。
むろん菊乃さんには先生の愛情の一途なのはよく分っていたし、その限りに於て、実に甚しく感謝もし、先生に対する並ならぬ敬愛もいだいていたろうと思いますよ。その敬愛が死に至るまで一貫していたことは、第一に、その自殺自体が証明しています。音もなく、声もなく、まるで影が死ぬように、菊乃さんはさりげなく死んだではありませんか。
そのさりげなさは一に先生に対する敬愛の深さ高さの然らしむるところであったでしょう。しかし、死なねばならぬようにさせたのも、やはり先生でしたね。菊乃さんに対する先生の愛情の一途さや無邪気さは万人に認められるものであるが、その無邪気さに傷けられてイケニエとなっている菊乃さんの切なさは誰にも分ってもらえない。王様をめぐる雰囲気の無邪気さは、その蔭にかくされた誰にも知られぬイケニエが自分ひとりだということを圧倒的に菊乃さんに感じさせたと思いますよ。人々自体が菊乃さんをも雰囲気の中のたのしい一員と認めているのですから、彼女にとっては、それを裏切るのは容易ではありません。離婚することもできないし、自分の本当の胸の中を誰に言うこともできない。彼女以外の人々はすべて王様とそれをかこむ神がかりの徒で、そこでは王様の言葉や論理が絶対だ。その神がかり的な雰囲気を破る力は、いかにその悩みが切実で、彼女の生活問題が切実であっても、その切実という力によって神がかりを破ることは不可能でしたろう。まるで質が違って、チグハグで、先方は全然我ひとり神がかり的に無邪気だから通じようもなかった。すくなくとも、菊乃さんの目には周囲の全てが取りつく島もなく絶望的に見えたろうと思われます。
菊乃さんが離婚もできず、切実な胸の思いも云えないとすれば、とるべき手段は死あるのみ。仕方がない結果でしたろう。
しかも、彼女は実に謙虚でした。すべてはわが身の拙さ、至らなさと観じたかの如くに、実に音もなく、影の如くに、帰するが如くに死んだ。しかも海中に身を投じながら、水をのんでいないというのは、彼女の思いつめた切実な思いのきびしさが、水中に身を投じて死する前にすで
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