。そういう先生の心境は、菊乃さんに対するこまやかな愛情にあふれ、いかにも老いたる童子の感あり、虚心タンカイ、ミジンも汚れがない。見る者の心をあたためる風景であろう。
 先生の菊乃さんへの溺愛ぶりは、いかにも手ばなしの感で、大らかでもあるし、マジメでもある。思うに先生は生涯順境にあって、邪心を知ること少く、いかにも無邪気な人であるようだ。ハタから見れば、親しみ深く、愛すべき人であろうと思う。
 しかし、他人同志の関係ではなく、先生と切実な関係に立った者には、どうであったか。先生の老後の生活問題が切実であった如くに、菊乃さんの生活問題も切実であったにきまっています。
 老後といえば、芸者というものは、若い時から甚だ切実に老後を考えているものです。それは花聟や花嫁を配給される家風になれた人々が、若い時に老後を考える必要がなく、目先の甘い新婚生活の夢でいっぱいで、事実に於て概ねそれで一生が間に合うのに比べて、大そうちがう。彼女らには老後について一ツも約束されたものがない。
 塩谷先生は死水をとってもらえば、それで足り、それ故に菊乃さんを得ることによってすでに安定を得た老後であった。しかし、先生なきあとにも、菊乃さんの老後は残っているのである。
 戦争前の財産が殆どゼロとなった今日、先生なきあと、菊乃さんの老後のタヨリとなる多くの物があろうとは思われない。
 先生は敗戦後の今日往時のように華やかな時代はすぎ去っても、尚多くの門下生にとりまかれ、そういう雰囲気というものは、どこの学者や芸術家にもあることで、諸先生の客間や書斎はどこでも王城のようなもの。その書斎の主が王様で、そこの雰囲気しか知らなければ、学問や芸術の王様は天下にこの先生たった一人のように見える。ナニそんな王様は天下に三千人も五万人もいるのだ。
 先生とそれをとりまく門下生は、わが王城の雰囲気に盲いてわが天下国家を手だまにとって談論風発して、それで安心し、安定していられるけれども、天下の大を知るハタの者から見れば、まるで違う。菊乃さんは芸者だから、永年客席に侍ってきた。芸者の侍る宴席というものは、これがまた各々一国一城の雰囲気をもっているもので、村会議員やヤミ屋の相談会でも、やっぱり王様や王国の雰囲気、王様と王様の御取引なのである。
 そういう数々の王様や数々の王国の雰囲気を、表からも裏からも見てきた菊乃さんは、その雰囲気になんの実力もなく、頼りないことを身にしみて知っていたであろう。
 この王国は王様が死ねばもはやどこにも存在しなくなるものである。文士や編輯者の間には文士の女房について「亭主に先立つ果報者」という金言がある由である。つまり、亭主たる文士が生きていて盛業中に死んだ女房は、恐らく亭主たる文士の死よりも盛大な参会者弔問客にみたされ、キモの小さい人間どもをちぢみあがらせるぐらい大葬儀の栄をうけるであろう、という意の由である。果して然りや、真偽の程はうけあわないが、それほどではないにしてもとにかく王様が生きてるうちはそんなものだ。しかしこの金言の真意はむしろそのアベコベを云うのであろう。王様が死んだあとの女房は全然誰も寄りつかず、寄りつくとすれば何か目的のためであり、むろん葬式なんぞに誰も来てくれやしない。そういう意味を云っているのであろう。
 塩谷先生がこういう金言を身にしみて考えられるようだと菊乃さんも死ぬ必要はなかったであろう。
 ところが、先生はあまりにも無邪気すぎますよ。門下生たちの集りの、自分が生みの親であるが、菊乃さんが育ての親で、一同にしたわれていたなぞと、タワイもないことを仰有っておられるが、そのような王国の雰囲気のたよりなさを身にしみ知る者にとって、このような先生の無邪気さは、たよりなくもあるし、時に甚だ憎らしいものであったと思われます。
 しかも先生は、越後長岡の賤の女がその旧藩主の同族たる殿様に招かれるに至るとは名誉この上もなく、死して瞑すべきである、というタテマエであるから、賤の女の心事が分らぬにしても、論外である。
 先生自身は菊乃さんを得て老後の切実な生活問題も解決して、解決以上に大満足を得て、安定し、たのしかったであろう。門下生にとりまかれて一国一城の主を自覚し愛人に美酒を献じ、愛人の三味の音をたのしみ愛人の手拍子に興を深めつつ詩を吟ずる。また殿サマに招かれて恋人を同伴、謡曲のお相手となる。それで満足、先生自身はどこにも不足はなかったであろう。
 先生の満足が深く無邪気であるほど、菊乃さんには堪らなかった筈である。菊乃さんにだって、切実な老後というものがある。その切実さは恐らく先生以上であったにきまっている。なぜなら先生は菊乃さんが居なくとも門下生にかこまれてともかく王様でありうるが、そういう約束は菊乃さんの老後には皆目保証されていない
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