分が公安委員として呼出され、意見を求められた際、積極的に反対しなかった為にある新聞にひどく叩かれたと云う事があった。昨年競輪廃止の要望決議を提出した自分が、競輪同様に賭博的なドッグレースに反対せぬのは怪しからんと云う云分であった様である。是には二つの間違があったので、其第一は当時自分が会長をして居た犬の協会から、自分の知らぬ間に会長名で請願書が出て居た事と、第二は昨年の競輪廃止の要望の理由は「治安上害がある」と云う事で賭博的である事は要望書には一つもなく、従って宝くじ、競馬、オートレース等には触れず競輪だけに反対したのであったが、其点が一部の誤解を招いた事である。公安委員の自分が競犬法の請願人になる等と云う事は自分でも呆れた位だから、事情を知らない記者が公憤を感じるのは無理も無いのである。然し公憤のあまり筆が走り過ぎてか、自分の発言を相当に歪曲して書いた事実はジャーナリズムには時には有りがちの事だが、自分としては甚だ迷惑で、其の事情は自分が東京新聞(五月卅一日)に書いた通りである。廃止の要望に国警公安委大会の決議で「治安を乱し、青少年が犯罪を犯す」点だけを取上げたのは公安委員と云う立場からは当然の事である。此の要望は国会では取上げられず競輪は再開したが昨年一月から九月迄に四十七件起った警察沙汰は再開後の五ヶ月間に三件に減って居り、要望の効果だけはあった様で、四月の公安委大会には議題とならず一応静観の姿である。
宝くじ、競馬、競輪の様な公認賭博的なものに就ては公安委員としてよりは寧ろ一般国民の一人として検討すべきもので、可否いずれの側にも多くの議論が成立するであろう。是等のかけごとは戦前ヨーロッパではいずれもなかなか盛であり皆が人間通有の賭博的興味? を大いに楽しんで居た事は筆者も目撃して来て居る。然し文明国でやって居るから其のまま日本でもやるべしと云う結論にはならぬかも知れない。と云うのは欧洲の此種競技場では昨年の競輪騒ぎの様な警察沙汰の起ったのを殆んど聞かない。日本での運営方法が悪く観衆の賭博神経を刺戟し過ぎると云う事があるかも知れぬ。或は国民の教養節度が低く、こうした競技を楽しむ資格が無いと云う事かも知れぬ。若しそうとすればそんな国民にはまだ早過ぎる。幼児に花火を持たせる様なものだと云う事になる。いずれにしても競技の為に白昼公衆の面前で、放火、強盗、殺人、傷害と云った犯罪を頻発させる様な事ならば好ましからずと云われても止むを得ないし、ひいてはこうした惧《おそれ》のある一切の競技迄白眼視される事になる。分けても青少年への影響は憂慮されるものがあり、未成年者入場禁止或は競技券禁止等も研究問題で、すべてこれらは国会の議題として充分論議を尽すべきであろう。
自由を尊重する民主主義の世界には成可《なるべ》く禁則の少い事が望ましい。然し其為には禁則が無くても問題を起さない様な立派な国民になる事が先決問題である。
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世の中には色とりどりの愉しいこと面白いことがあった方がよろしいな。ドッグレースなどというものも、あって悪かろう筈は一ツもないね。しかし、運動会の余興かなんかにやるのはよろしかろうが、まず当分は犬券などの発売は見込みがなさそうだ。八百長以上の大騒動になるのはウケアイ。なぜなら、ドッグレースに向く犬が、日本には少いのだから、仕方がない。
まア、シェパードは訓練次第でレースに用いられるかも知れんが、全然ダメなのは日本犬である。日本人は外国のことを知らずに一人ぎめの国粋主義者が多いから、日本犬というものを大そう買いかぶっているけれども、日本犬というものぐらい手に負えないバカ犬はないのである。
一生一人の主人にしかなつかない、二主に仕えず、という、なるほど日本のサムライの賞讃を博するに適した犬であるけれども、日本人はバカでも忠義なのが何よりだと考えて、バカということを問題にしていないから、共同の作業をやらせると大変なことになってしまう。
主人だけに仕えるということは、主人の命令でないと動かん、主人が居ないと一人前、イヤ、一犬前には立居振舞いができんということで、主人と合せてようやく一犬前、主人が居て命令し、犬はその顔色をよんでから動きだすことになる。けれども、犬の競走だもの、主人が犬と一しょに走るわけにはいかんし、さすれば犬は途中で主人と離れるから、どうしてよいかと途方にくれてウロウロと主人を探しはじめるし、一犬ウロウロして万犬ウロウロし、ウロウロ犬同志で喧嘩がはじまる。横丁の勝手口とちがって喧嘩をやるには申し分のないフィールドがあってワンワン、ウーウーやりだせば先頭に立ってまちがわずに走っていた二匹か三匹の感心な犬も、サテハ敵ニ計ラレタリ、我オロカニモ先頭ニ走ッテオクレヲトリシカ、一大事、とコウベをめぐらして、競走の方を忘れてフィールドの喧嘩の一団へフンゼンなぐりこみをかけるに極ったものなのである。
一番たしかなのは犬と一しょに主人も走れば犬も心配せずに、また喧嘩も起らずに無事トラックを一周することはいくらか確実であろう。けれども、犬と犬のオヤジと一しょに走ると、これは犬の競走ではなくて、オヤジの競走である。犬より早いオヤジがいる筈がないもの、犬券を買うお客は、犬の走力ではなくてオヤジの脚力を調べなければならんな。しかし、オヤジの脚力だけ調べたってダメだね。魚屋のアニイが愛犬と一しょに必死に先頭をきると、八百屋のハゲ頭の愛犬がハゲ頭の心臓マヒを心配したわけではないが、とにかくハゲ頭の一大事であるというので、魚屋のアニイのスネに食いいってしまう。それから後は人間と犬が一かたまりに、どういう目的不明の大闘争が展開するか、お分りであろう。最初に噛みついた組と、噛まれた組の人間と犬には各自の闘争の原因や理由が分っているかも知れんが、それを発端として各人の愛犬が各犬コモゴモ逆上熱戦を展開の後は、どの犬とどの人間にとっても自分の闘争の目的も相手も理由も全然不明である。とにかく犬人ともに現に必死に相闘いつつあるから相手は敵であり、そのために必死に闘わねば相ならん。その時さすがにデンスケ君は自分の駄犬をソッと陰に隠すようにしながら喧嘩の一団をはなれてトラックへあがると、ゴールめがけて抜け駈けをやる。と、デンスケ君よりも頭のよい山際さんがオーミステイクと云って先に走っているから、デンスケ君は死に物ぐるいに追走してゴールインとともに山際さんにムシャブリついて小僧同志の大乱闘となる。犬の先手をうつような闘争的な小僧さんなども現れるな。しかし、ここまではレースを行う選手の側の話である。
以上のレース経過をたどって、山際さんの犬とデンスケの犬で連勝式一二着と相なったが、本命の魚屋と対抗の八百屋と、その他の入賞候補の注意犬がみんなダシぬかれて負けてしまい、一番名もない駄犬が一二着。見物人はオーミステイクと云って済ますことができんというので、方々に火をつけて大変な騒ぎになる。
日本犬というものはダラシがなくって、主人が居てくれないと一犬前に喧嘩もできない弱虫だから大したことはないが、シェパードのレース中にこんな騒ぎが起ると、見物人もイノチガケですよ。
日本犬も訓練次第で、いつかはレース向きに仕込めるかも知れませんが、とにかく日本犬は主人持ちでようやく一犬前となって、バカはバカなりに一途に番犬の役を果す。それだけが取り柄なのだが、一生ケンメイ訓練してバカながらもレースをやることだけは一ツ覚えに覚えこんだとなると、主人もちで疑り深くて誰にもなれない根性を忘れて、番犬というたッた一ツの取柄の方がなくなってしまう。バカを利巧に教育するというのは人間の場合だけで、犬は訓練したってバカの一ツ覚えという役に立つだけで、バカの素質そのものはダメであるから、日本犬がレースができるようになったって、一向に犬種向上にはなりません。一方を覚えると、一方を忘れるだけで、どっちみちバカは治らぬけれども、要するに日本犬はよその犬と喧嘩せずに駈けッこができるよりも、主人持ちで性こりもなく人に吠えるバカなところだけが取柄なのであります。
日本に多いシェパードは利巧な犬ですからレース犬に利用するのはカンタンでしょうが、これは人間の他の生活に利用して相当有能な役割があって、その性能は駈けっこよりもよほど複雑な役目を果す素質があるから、駈けっこに用いるのはいささか役不足であろう。
同様にポインターやセッターを猟犬本来の訓練をやめてレース用の訓練に力をそそいでレース犬に仕立てたところで、全然犬種ダラクで、向上とは申されぬ。
要するに競犬をやるのはよろしいが、犬種向上改良などと美名をつけずに、グレーハウンドを海外から買いもとめて、本来バクチ的公衆娯楽として競犬をやりなさい。公衆に娯楽を提供する目的でもあるが、またそのテラ銭の必要によって競犬をやる、そう表明して世をはばかる必要はないと思うが、有りもせぬ美名をつけて犬の智脳向上改良などゝはムダな話であるし、世を偽るものでもあろう。
馬というものは概ね走るだけが能であるし、その取柄や役割も主としてよく走ることが基礎となっているのだから、競馬が馬種向上に役立つとは筋の通らぬ話ではないが、犬の取柄や役割は走ることではありませんな。喧嘩の負け犬は逃げ足の必要があるが、猟犬、番犬、牧羊犬、警察犬、盲導犬、愛玩犬のどの素質の基本にも特に速く走るということが重大な要件とはなっておらん。もッと複雑な智脳や訓練を要する特技によって素質の良し悪しが定まるもので、速く走るということはその犬の素質として決して重要ではない。
だから、競犬ダービーの優勝犬の血統から、猟犬、番犬、牧羊犬、警察犬、盲導犬、愛玩犬の優良種が生れると本気に宣伝する気なら、それが何犬の協会の御発案か知らんが、どうも智脳の程度が犬に似ているのじゃないか、精神智脳鑑定を要する問題であろうなぞと疑わざるを得んですな。
なるほど、競馬をはじめ、競輪、オートレース、いずれも馬や自転車や自動車の品種改良向上と云ってるけれども、いずれも早く走るのが主目的な動物又は機械であるから、向上改良の筋は立っておりますよ。今までの競何々はそうだったが、しかし、券を売って競走するものは、なんでも品種改良向上のためだときめてはいけませんな。
人間にも駈け競走というものがあって、これにプロをつくって券をうることもできない筈はないが、その優勝者の血統から大博士、大臣、大軍人、大音楽家が生れると云うようなことは、まさか陸上競技レンメイの会長でも云わないと思うな。競輪だって自転車と人間と二ツ合して一組となって競走するのだけれども、品質改良向上というのはもっぱら自転車の方で、決して人間の方の品質向上改良とは云っとりませんな。
私は議会とやらへ提出中の「畜犬競技法案」の目的として向上改良というのを新聞でよんだ時に、日頃ウチの日本犬のワケも分らずに忠義専一、バカなのには音をあげてるものですから、何と勇気ある方々よ、と、そぞろにキモをつぶしたのです。犬の競走というオナグサミを提供して同時に地方財源としてテラ銭をかせぎたい、これが本当のところであろうし、それだけで充分であろう。競犬にも遊びとテラ銭かせぎのほかの役に立つ任務があるということを書き加えておかないと、お役所のハンコがもらえない。何事も大義名分という形式の問題である。国家に形式主義が行われる時は、亡国か革命の前夜であるとは諸国の歴史が証明しているのであるが、いい加減な大義名分だけは一度戦争に負ければタクサン、もうコンリンザイやめにしてくれないかねえ。もっと利巧になりましょうよ。
公安委員会が競輪禁止を決議したのは「治安に害がある」という理由で、賭博がいかんとは一言も云うておらんと仰有るのも、形式的な屁理窟でしょうな。
競輪にゴタゴタが起るのは八百長レースらしきものがあって一部の観衆が騒ぐのであるが、八百長レースは競馬やオートレースにもないとは云われん。また競馬やオートレースの見物人の中に火を放《つ》けたり暴動を起すこ
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