安吾人生案内
その五 衆生開眼
坂口安吾
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(例)仰有《おっしゃ》る
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(例)三千|米《メートル》
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(例)もろ/\
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悪人ジャーナリズムの話
[#地から3字上げ]平林たい子
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おどろいた。胸を打たれてまとまった感想も浮かんで来ない。かぞえてみると私達は廿五、六年来の友人だが、めったにあわなかった。最近、婦人公論の集りで久しぶりに一緒になり、興奮して大いに語った。彼女は心臓の不安を訴えた。フランスにも行きたいが、この体では行かれないと言った。それから私に、フランスへ一緒に行こうとしきりにさそった。私は仕事のむりをやめることを忠告したが、よほどの生理的脅迫のない限り、この忠告がきかれないことは知っていた。
よく言われる「ジャーナリズムの酷使」が、林さんの死を決定的に意味づける結果となった。徹夜同然の仕事を一年中つゞけて、つゞきものをいくつももち、ほかに一ヶ月間三編も四編も短篇小説をかくなどということは芸術の常識としても勤労の常識としてもあり得ないことだ。そのあり得ないことをやらせようとする追求が、いまの日本のジャーナリズムである。しかし、そばによってよくよく見るとこんな追求性は、「どんらん飽くなき」と言った放恣さとしてよりも、出版資本の没落したくない消極的な焦躁として私達の目に映る。大新聞以外の出版資本は、他産業にくらべて資本の基底が浅く、無名または風変りの作家を売り出して、大損か大もうけかのカケを試みる冒険力をもっていない。宣伝費も割り安で当たり外れのハバの小さい作家にたよって、そう大づかみでなくとも、確実な利益を得る近道を行くよりほか、資本の安全の保証はない。かくして人気作家が生れ、追求が集中し、使いつぶされる。大げさに言えば、林さんの死は、こんな日本の出版資本の特性の犠牲であろう。
身を処することに思慮深い林さんが、このウズマキの真中に入ったのは、全く、自分の肉体力に対する過信からだった。事実林さんは、もろ/\の破壊力とたゝかいながら、よく感性の枯渇からまもり、いくつかの傑作をかいた。戦後の「雨」「晩菊」「浮雲」など、前期の林さんのもたなかった思想性をもちはじめている。中でも「浮雲」は、敗戦に対する日本人の偽りない心情告白の書として、後世にのこる意味をもっていると思う。
こんな公式な感想とは別に、私の眼底には、氏が二十三歳で、私が二十二歳だったころのシオたれたメイセン姿が浮かぶ。私たちはよく二人で電車賃がないまゝに世田谷の奥から本郷の雑誌社まで歩いた。着物も御飯も貸し合った。むくわれない愛情のために泣き合った。あゝ彼女今や亡し。
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[#地から1字上げ](六・二九 夕刊朝日)
[#地から3字上げ]宮本竹蔵
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作家がヘタクソの小説を書くと、ジャーナリズムの酷使がそうさせたといった。自殺でもすると、いよいよ大酷使のせいにしてしまった。生活がジダラクで、頭が空ッぽになり、生活力が消耗してしまったことは、棚に上げているのである。林芙美子の死は、心臓マヒで自殺でもないが、それでも平林たい子によると、どんらん飽くなきジャーナリズムの酷使で、犠牲になったものだそうである。(朝日)林は朝日に、小説を執筆中だった。だから平林によれば、差し当り朝日が「どんらん飽くなき」ジャーナリズムの代表ということにもなりそうだ。現代の作家とか批評家とかいわれる人種は、ジャーナリズムで生計をたてているのであるが、何か悪いことが起ると、原因をジャーナリズムに押しつけるくせがあった。悪人はきまってジャーナリズムだった。
林は一年中つづけて、長篇を書いたほか月々三つも四つも短篇を書いた。芸術にも勤労にも、常識にないことだそうだが、こんな無理を強いたのはジャーナリズムだったと、平林はいうのである。だが飽くなきどんらん性は、無理を強いた側のみにあって、無理を呑みこんだ側にはないのか。これは魚心と水心だ。罪があるなら、罪は五分五分のたたき分けでなければならないはずである。あまり一方的のものの言い方をすると、逆効果で、死者を辱しめることになりそうだ。
一般にジャーナリズムに対し、個人の力で、どうにもならない魔法の力があるような迷信がある。清水幾太郎によると、二三の大新聞と、NHKが共謀すれば、思うがままに世論を作り出すことができるそうだ。だが民衆は、清水の考えるほど、新聞からダマサレ放題になるような、衆愚ではないのである。究極において、民衆はダマされない。ジャーナリズムの威力では女流作家を殺す力はないであろう。
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[#地から1字上げ](六・三〇 東京)
[#地から3字上げ]平林たい子
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宮本竹蔵氏は、ジャーナリズムの酷使が林芙美子の死を決定的にした、という私の言をつかまえて、平林はジャーナリズムを悪人にしたとひどくいきまいているが、私はむしろ日本の出版企業の弱さ貧しさに同情したつもりだった。冒険をゆるさない貧弱な資本が、安全性の多い少数の人気作家にその要求を集中するのは当然なことで、それにいちいち応じた場合、作家が肉体的にも精神的にも疲労消耗するのもまた当然なことだ。自分の肉体力への過信が林芙美子をしてジャーナリズムの渦中にとびこませたことは否定できない。(談)
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東京新聞「放射線」欄の宮本竹蔵先生の所説は、ジャーナリズムだけが悪人ではなくって、過度の要求を承知でひきうけて濫作する作家の側にも罪がある、ジャーナリズムには女流作家を殺す力がない、ということを言いたかったのであろう。節度を旨とし、秩序ある論理を展開して結論に至れば、それで申し分なく、それも一ツの説である。各人各説というもので、自分はこう思う、ということを適切に表現して読者の批判に供する。新聞の論説は時代の正論をさがし、それに近づくことを旨とすべきものであろうが、正諭の支えとなるものは論者自身の信仰ではなくて、読者の批判なのである。
ところが宮本竹蔵先生の所説に、皆さんが一読してお分りと思うが、その論理には秩序もないし節度もない。甚しく感情的な騒音にみちて慎しみを欠き、まことに教養に乏しくて、裏町の喧嘩のような論理でしかない。
三大新聞にくらべれば東京新聞は部数の上では二流紙であろうが、その第一面の匿名論説たる放射線欄と云い、文芸欄の小原壮助さんと云い、その論理がいかにも粗雑にすぎて、教養を欠き、暗黒街でしか見られない騒音に類して、あまりにも赤新聞的すぎるようだ。
私の書いた物などもこの二ツの欄の先生方に時々大そうお叱りを蒙ったりするが、お叱りを蒙った側から言わせると、まずこの欄の先生方は書かれた物をよく読み正しく理解した上でその論説の不備や至らざるところをお叱りになる、という穏当適切なものではなく、よくも読まずに、途中の一行だけをその前後から切り離してとりだしてインネンをつけたり、誤読を基にして悪口雑言を浴せたりなさる。
今回の場合、宮本竹蔵先生のお叱りを蒙った平林たい子さんの文章は、どこかの新聞の文芸欄の一隅にのった追悼文で、せいぜい原稿紙二枚ぐらいの短文である。ところがそのたった八百字ぐらいの短文すらも精読を欠き、相手の意あるところを読み誤って、勝手にきめつけていらッしゃる。前掲の両者の文章は一字も省略しておらぬ筈ですから、どうぞ皆さん御自身でも吟味してみて下さい。たった原稿紙二枚の文章ですら、このように精読を欠いているのですから、長い文章に至っては誤読誤解の甚しさは申すまでもありますまい。
精読せずに批評するということは甚だしく不誠実なことで、文化人の至極当然な教養から云って日常の談話に於てもそれを慎しむのが当り前ですが、誤読あるを怖れるような慎しみはミジンもなくて、一行だけとりだしてそれを全文の本旨であるかに見立ててカサにかかってインネンをつけ悪罵を放つ。そのインネンのつけ方や、理窟の立て方に於てはユスリをやる者の論法に似て、用語や文脈の品性に於ても全くそれと同等の教養の低い文章である。それを第一面の匿名論説にかかげる新聞の品性というものは三流四流でもなくてゴロツキの赤新聞のようなものだね。東京新聞は、都新聞の昔には娯楽を主とする新聞であったが、その品性は相当に高くて、芸界のもつ教養や気品を失わなかったものでしたよ。そのころは私も匿名批評を書いてナニガシの飲みシロを稼がせてもらったものだが、私に関する限りは匿名批評に於ても、精読を欠いたり、タンカのような悪罵や放言をしたことはありませんでしたね。匿名といえども批評である限りは節度もあれば秩序もある論理をはなれてはならぬものです。
平林さんの追悼文の全文を読めば、宮本竹蔵先生の誤読は判然とし、彼女の抗議が理に合っていることがわかる。つまり平林さんはジャーナリズムの酷使、ということを一応述べてはいる。しかし作家に過度の執筆を強いるジャーナリズムというものも、そのそばによってよくよく見ると、「どんらん飽くなき」という放恣なものであるよりも、出版資本の没落したくない焦躁として目に映る。日本に於ける大新聞以外の出版資本は他の産業にくらべて資本が少いから、無名作家や風変りな作家の作品を載せて冒険を試みることができない。一応世間の評価が定まった顔ぶれをならべて、大モウケはできなくても大損のないような商法をとらないと、小資本出版業の月々の安定は保証されない。そこで群小業者が一様に当り外れのない商法に依存する結果として、特に人気作家にだけ各社の注文が集中することになる。林さんの死はそういう小資本出版という日本の特異性の犠牲であった。ただし、「大ゲサに云えば」と特に平林さんはつけ加えることも忘れてはいなかったのである。ところが宮本先生は「平林の説によるとどんらん飽くなきジャーナリズムの代表は差し当り朝日ということになろう」なぞと仰有《おっしゃ》る有様で、平林さんによれば大新聞以外の出版が小資本であるために冒険ができず一様に当り外れのない商法にたよって人気作家に注文が集中する。その犠牲になったような林さん。こう論断して、特に大新聞以外の小資本出版の特性が必然的に流行作家を追いまわす結果を生じる点を指摘して、林さんが犠牲になったジャーナリズムとはそのジャーナリズムの方だと言ってるのですね。
これは平林さんの独特の説であろう。ジャーナリズムの酷使といえば、誰でも新聞小説を考えそうで、そういう考えが常識のようになっている。おまけに林さんは朝日に連載小説をかいていた。しかるに、平林さんに限って、林さんは新聞小説の犠牲で倒れたとは言わず、その他の群小出版業者が一様に小資本で企画に冒険が許されなくて必然的に人気作家を追いまわして商法の安定をはかる。その日本ジャーナリズムの一特異性が林さんを犠牲にしたものだ、と、極めて特徴のある論をなしているのである。
大新聞の注文だって人気作家に集中する傾向は目立っており、小資本出版業だけが小資本のために冒険ができなくて人気作家を追いまわす、とのみは云われぬものがあるようだ。そして平林説に異論をたてるとすればその点であろう。
ところが、宮本竹蔵という先生は、平林さんの文章の最も異色ある所論の反駁かと思いきや、それを否定しているために異色を生じているその否定の方を平林説と一人ぎめにしてそれに文句をつけて、林さんを殺したジャーナリズムと平林が云うのは朝日のことだろう、こう云ってるのだ。だが彼は平林さんの全文を読んでいないということが分ります。にも拘らず彼は実に怖れげもなく「平林がどんらん飽くなきジャーナリズムとは朝日と
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