めていますから、犯人の自供をまつ必要なく、抜き差しならぬ犯人と推定することが可能であったようです。
 これに反して、犯人の自供以外に決定的な証拠がないという事件があって、この事件もそれに類しておりますが、終戦前までの日本は、こういう時に自供が最大の証拠となったものですが、自供を証拠に用いるということは警察制度の智脳的な発育を害し、いつまでも伝馬町の性格をまぬがれぬという危険がありますね。その一例に類するものが今回のこの事件でありましょう。当人の自供の有無に拘らず、決定的な物的証拠によってのみ犯人か否かを定めるのが何よりですが、そう確実な物的証拠のない事件が少くなくて、たとえばこの事件のように被害者も容疑者も浮浪者まがいのヤミ屋や窃盗常習者だという場合にこれという物的証拠もない。こんな事件に限って世人も関心をもちませんから、取調べもゾンザイになり、自供があると、多少の納得しかねるところが現場の状況などに残っていても、ピッタリ合う証拠だけとりあげて犯人ときめてしまう。だいたいどの事件の証拠を見ても、これが犯人だときめてみると大がいそれで間に合う性質があるもので、浮浪者と窃盗常習者の殺人事件であるからというような心の弛みが無意識のうちに働いたときには、その考察はすべてにカンタンに間に合って、裏の裏まで行き届く鋭さを失いがちだろうと思われます。
 そのせいかどうか、それは断定の限りではありませんが、この事件の論証法には犯人の自供の方に主点があり、その他の状況にも疑わしいものがあるけれども、自供に符合する証拠だけをとりあげ、そうでないものは不要なものとして顧みなかったようなところがある。
 前掲の事件の概況を記した文章の末尾にちかく、それはこの記事を受けもった新聞社の人の私見かも知れませんが、小林大内両名がなお犯人でないかも知れぬと疑う余地はあったが、一方に、深夜の二時に米を売りに訪問するということは常識では信じられぬ弱点でもあった、と云っております。
 しかし、これも、彼ら両名が被害者に売るはずの米は農家から盗んでくる米である。定まる住所のない両名が前もって米を盗むと隠し場所にも窮するから、結局当日盗みだしてきて直ちに処分するのが自然であるが、日中盗むわけにはいかないし、宵のうちもまたこまる。また、同じ村の農家だと足がつき易いと見てか、両名が盗んだのは隣村の農家からで、その距離は分りませんけれども、これを持参の袋に詰めかえて被害者宅へ運んできたら深夜の二時になったとしてもフシギではなく、それで話の筋は通っているのではないでしょうか。だいたい浮浪者で窃盗常習者の両名と、そういう人間と承知で取引きしているヤミ屋との取引ですから、普通人の常識や生活に当てはめて訪問の時間が妙だというのは、むしろ彼らの生活の真相を見あやまるばかりで、彼らの供述が世間の常識に反していても彼らの特殊な流儀に於てツジツマが合っていた方が、むしろ嘘がなくてホンモノの供述であるらしいという考え方も成り立つだろうと思います。
 最高裁へ上告に当って彼らがもらしたという四ツの不備のうち、二と三の不備は、自分らが強いられて行った自白のような方法で被害者を殺したとすれば、現場の様子が事実とちがっている筈である。彼らはこう云って相当に重大と見られる反証をあげております。即ち、二人が被害者を訪問したときは泥足のままであるから、もしも自供の如くに室内へあがって彼を殺したのが事実なら、タタミの上に泥の足跡がなければならぬ筈である。ところが自分たちは土間で被害者がすでに屍体となっているのを発見して室内へあがらずに逃げだしたから、タタミに足跡がなかった筈である。また、ねている爺さんの頭をナタできりつけ、苦悶して土間へ倒れてのちに大内が後から抱くようにしてクビをしめて殺したと自供したのが事実なら、大内の着衣に血がついていなければならぬ筈である。自分らが犯人であれば以上二ツの自供と食い違うものが生じている筈であると述べています。
 犯行後、小林が四日すぎて捕われ、大内は七日目に捕われた。血のついた着衣の始末をするには充分な時間があったわけだが、着衣に血痕の有無とか、血のついた着衣の処分とかは当然逮捕直後に訊問して証拠かためがあるべきで、容疑者から調査の依頼がなくとも一審の判決前にケリがついており、その調書があるべきであろう。
 タタミの足跡も同断で、現場検視のソモソモの時から足跡の有無や、足跡があった場合にはその特徴等について足型もとっておくなど、誰に頼まれなくとも調査が行きとどいていなければならないでしょうが、その行き届いた調査があったかどうかは不明です。しかし、彼らがその晩たしかに泥足であったことは何によって証明するか。足跡を自ら拭き消してから退散したこともありうる。それは彼らが今日に至って反証をあげても、それを無力にする理由となりうる。
 しかし泥足の証人がないということは、彼らが泥足であった証明にならないだけのことで、彼らは泥足でなかった、という反対の事実を証明する力はないのである。またタタミの足跡を消したという証拠があれば、足跡があったという反対事実を証しうるが、消したかも知れぬとだけでは、なぜ足跡がないかという証明にならない。ただ要するに、そこに足跡が残らぬ筈だという被告の言葉は一方的でそれを証明する力がないということであり、裁判官の心証が彼らを犯人とみる方に傾いておれば、彼らの反証は無力であると認定せられるであろう。
 しかし、泥足の証人がないということは、泥足であったという被告の主張とその証拠の力に於て五分五分に対立しているだけのもので、泥足でなかったという確実な証人がでなければ本当に否定する力にはなり得ないわけだ。裁判官の心証によって、証拠の力が五分五分の一方へ傾くのは当を得たものではないね。しかし、浮浪者や窃盗常習者がヤミ屋を殺したというような極めて有りそうな事件では、被告に不利な心証の傾斜が加わり易いのは裁判官も人間であるからには有りがちなことで、誰しもオレは別だと云いたいでしょうが、却々《なかなか》もって。とにかく大いに反省用心して、常に慎重に傾斜を正しく考察を新にするような心構えがガッチリしていても傾斜し易いのが人情でしょう。

          ★

 小林大内が犯行を否認して自分らの当夜の行動としてのべている事柄の中から、犯人であるかないか、かなり明確に定めうるカギはあったと思います。彼らはその晩、農家から一俵盗みだし、袋に詰めかえて被害者宅へ持参したといい、結局、附近にすてられていた米のつまった袋が容疑の端緒となったのだそうですが、盗まれた農家も、俵の米を詰めかえた場所も実在しなければならぬ筈であるし、その反対に、被害者宅の貯蔵の米が何者かによって詰めかえられて運びだされた形跡があったか。最初の現場検視が厳重に細部に行きとどいていて、彼らの供述に応じて直ちに事実との照合が厳密になされたなら、彼らが被害者を殺した犯人ではない、という証明はそこからは直接に得られないにしても、盗んだ米を袋につめかえて売るために持参したという供述の真偽は得られたであろう。
 そこまでの供述の真偽が決定すれば、すでにそのときからタタミの上の足跡の有無が中心的な問題となった筈で、土間へふみこんで被害者の屍体を発見しておどろいてすぐ逃げた、という供述の真偽が、犯人か否かを決するものとして調査のヤマとなるべき筈であったろう。しかるに、最高裁への上告に際してようやくこのことが被告の不満としてもらされているのですが、それは逮捕直後の取調べの発端に於て手落ちがあったことを示していないでしょうか。
 こうして真犯人が現れた以上はすでに明白でしょうが、犯人でなかった二人が逮捕されるや直ちにやりもせぬ犯行を自供することは有りえず、一俵盗んでつめかえて被害者宅へ持参して屍体を発見して逃げたテンマツを先ず第一に述べたり言い張ったりした筈でしょう、その供述に応じて取調べの発端から真偽の調査がなければならぬ筈でしたろう。そして、逮捕直後なら、米の盗難も詰めかえ場所も、その真偽は立証できた筈であろう。二審に至っては、もうムリだ。事件直後でなければ立証できない性質のもので、彼らは実に気の毒と申さなければなりません。
 要するに事件発生直後の現場の調査が行き届いておって、容疑者の逮捕直後に彼の供述の裏づけをもとめて正確メンミツに供述の真偽を実地に照合しておれば、まず誤審の第一段階はさけうる性質のものだと云えましょう。この事件には、その重大な第一段階にメンミツな実証作業を欠くところがあったようですね。
 さて、二審に至ったときに、一審の自白をひるがえして、無実であると主張して新しい供述をしたそうですが、もうその真偽をたしかめることはできない。わざと今ごろになってから真偽のたしかめようのない供述を行ったという風に悪く解釈もできるけれども、そういう仮定が慎しむべきであることは云うまでもなく、第一審に無実の主張やその証拠となるべき供述が行われなかったのはナゼであるか、徹底的に追求がなさるべきであったろう。そして追求の結果として、逮捕直後にその供述が行われたことがあったが、その裏づけの調査に欠くるところがあって、今となってはその真偽を明かになし得ない。そういう事情がハッキリしたとすれば、第二審の今日に至っては時日を経たためもはや真偽立証の道がないが、立証不能ということは、彼が犯人であるかないかの証拠としては五分と五分で、彼の供述を否定する事実なき限り立証不能の責任は容疑者の方にはないのである。したがって、他に被告の犯行を決定的とする証拠がない限りは、犯人に非ず、こう断ずるのが至当であろう。
 しかるに、彼らが自白をひるがえした時に、その理由の追求がどこでアイマイになってしまったのか見当がつかないが、よしんば盗んだ米を運んで被害者のところへ売りに行った時にはすでに死んでいた、その供述のうち米を盗んで袋につめかえて被害者宅へついたのが午前二時であったというところまでが事実であるとしても、彼らが到着した時にはすでに被害者は死んでおって、だから犯人ではない、そういう証拠は前段の事実だけからは出てきません。ただ、そこまでの供述が正しいから、次に、彼らは土間で屍体を見て室内へ上らずにすぐ逃げたからタタミの上には足跡がなかった筈であると主張していることも再調査の必要があろう、カンタンにウソだろうと片づけるわけにもゆかぬ、ということにはなりましょう。
 彼らの身になって考えてやれば、せっかくの米を途中で捨てて逃げたのも、ヒョッとすると自分らが犯人に疑われる心配があるということで、殺人に当って指紋を残さぬために手袋を用いるだけの要心を心得た犯人が指紋よりも手がかりになり易い自分の袋に米をつめたまま捨てて行くことは首尾一貫を欠いてダラシがなさすぎる、ちょッと理窟に合わぬ、変だ、と見ることもできましょう。
 彼らは犯人ではないくせに、そう疑われる不安のために心が顛倒して、疑いの元になるのも気付かずに自分の袋につめたままの米をすてて逃げた。疑われる不安の方だけ強くて、犯人でないことを立証する自信もないし、無実を主張する以外に具体的な論証法の心得もない。そういう彼らであるから、疑いの手がかりとなる米袋を捨てたのでしょう。これが無実に泣く人の性格でもあって、彼らは服役後、一度も自分らは無実だともらしたことがなかったそうですが、あきらめてしまって、ジタバタせずに恩赦で刑期をちぢめる方が得だと考えたのかも知れませんが、教育のない人たちの中には、国家社会の運営は自分らとカケ離れたもので、無教育な自分の意見など言い立ててもダメなものと諦めきってる者も少くないものです。
 これらの人々のためには何よりも弁護士が必要だが、それも特に逮捕直後に於て必要だ。なぜなら、証拠が生きているのは事件発生後きわめて短い時間だからです。

     ドッグレースの話  辻二郎

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