はレース向きに仕込めるかも知れませんが、とにかく日本犬は主人持ちでようやく一犬前となって、バカはバカなりに一途に番犬の役を果す。それだけが取り柄なのだが、一生ケンメイ訓練してバカながらもレースをやることだけは一ツ覚えに覚えこんだとなると、主人もちで疑り深くて誰にもなれない根性を忘れて、番犬というたッた一ツの取柄の方がなくなってしまう。バカを利巧に教育するというのは人間の場合だけで、犬は訓練したってバカの一ツ覚えという役に立つだけで、バカの素質そのものはダメであるから、日本犬がレースができるようになったって、一向に犬種向上にはなりません。一方を覚えると、一方を忘れるだけで、どっちみちバカは治らぬけれども、要するに日本犬はよその犬と喧嘩せずに駈けッこができるよりも、主人持ちで性こりもなく人に吠えるバカなところだけが取柄なのであります。
 日本に多いシェパードは利巧な犬ですからレース犬に利用するのはカンタンでしょうが、これは人間の他の生活に利用して相当有能な役割があって、その性能は駈けっこよりもよほど複雑な役目を果す素質があるから、駈けっこに用いるのはいささか役不足であろう。
 同様にポインターやセッターを猟犬本来の訓練をやめてレース用の訓練に力をそそいでレース犬に仕立てたところで、全然犬種ダラクで、向上とは申されぬ。
 要するに競犬をやるのはよろしいが、犬種向上改良などと美名をつけずに、グレーハウンドを海外から買いもとめて、本来バクチ的公衆娯楽として競犬をやりなさい。公衆に娯楽を提供する目的でもあるが、またそのテラ銭の必要によって競犬をやる、そう表明して世をはばかる必要はないと思うが、有りもせぬ美名をつけて犬の智脳向上改良などゝはムダな話であるし、世を偽るものでもあろう。
 馬というものは概ね走るだけが能であるし、その取柄や役割も主としてよく走ることが基礎となっているのだから、競馬が馬種向上に役立つとは筋の通らぬ話ではないが、犬の取柄や役割は走ることではありませんな。喧嘩の負け犬は逃げ足の必要があるが、猟犬、番犬、牧羊犬、警察犬、盲導犬、愛玩犬のどの素質の基本にも特に速く走るということが重大な要件とはなっておらん。もッと複雑な智脳や訓練を要する特技によって素質の良し悪しが定まるもので、速く走るということはその犬の素質として決して重要ではない。
 だから、競犬ダービーの優
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