いうことになりそうだ」こうアベコベに推測し、アベコベの平林説をデッチあげた上でインネンをつけ、そのように読みもしないでインネンをつけることが文化人の所業としていかに羞ずべきか、それは本来批評などというものではなくてヨタモノが人の言葉尻にインネンをつけると全く同じものにすぎず、文化人たる教養も礼儀も根柢的に欠いて、しかも省る色のないその厚顔恥なきこと、まったくユスリの暴力団と変るところはない。
 ところが、平林さんの本文では、更にそれにひきつづいて、即ち、林さんは弱小資本出版という日本出版業の特性の犠牲になったようなものだと述べた後で、身を処すに思慮深い林さんが群小出版社の競争というウズマキにまきこまれたのは、自分の体力に対する過信からであった、と述べているのである。そして死に先立つにそう遠くない最近に、彼女は平林さんに心臓の不安を訴えたことがあって、そのとき平林さんはムリな仕事をやめるようにと彼女に忠告したが、心臓の不安を訴えるほどでありながら一向にその忠告をききいれそうもなく、更によほどの病気の不安に脅かされるまではムリをつづけそうであったと書いている。つまり体力を過信したことが急死の一因であるという意味のことを言いもらしてはいないのである。ジャーナリズムの過度の要求に応じてムリをしたのは林さんが体力を過信したマチガイにもとづき、その死の責任が林さんにもあることを明かに暗示しています。
 ところが宮本竹蔵先生は、「ムリを強いたのはジャーナリズムの側だけだと平林は云うが、ムリの強制をひきうけた側にも罪はないのか。五分五分ではないか。一方的な言い方をすると逆効果で死者を辱しめることになる」と云って、自分の方が一方的な読み方をしていること、否、全文をよまずに架空の平林説をでッちあげて、そのお前の説は死者を辱しめる逆効果を生む危険があるぞと実に有りがた迷惑と申すべきか。こういう訓戒までオゴソカに申し渡してあると、この雑誌のように平林さんの本文が同時に載っているわけではないから、読者は本当に平林さんが死者を辱しめているかと思い宮本竹蔵先生の方が自分勝手の平林説を一人ぎめにでッちあげて、コキ下したり、訓戒を与えているのだとは知ることができない。実にヒドイと思うねえ。そのように人を傷けて、それで羞なき人間がいかに小新聞とはいえその第一面の特設の欄に覆面の批評を加えるとは、その新
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