安吾人生案内
その四 人形の家
坂口安吾

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)女礼《メレイ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夜|寝《やす》む

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ポロ/\
−−

     人形をだく婦人の話  高木貴与子(卅四歳)

[#ここから1字下げ]
 女礼《メレイ》チャン(六ツ)の事でございますか、動機と申しましても、さあ他人《ひと》はよく最愛の子供を亡くしたとか、失恋して愛情の倚《よ》りどころを人形に托したと御想像になりますが、これといって特別な訳があるのではございません。丁度終戦直後、人形界の権威といわれる有坂東太郎先生について人形つくりを始めてから半年程してお嬢さんを亡くした知り合の方が、廿年前からあったこの女礼を下さったのです。その頃から、此のお人形は私の処へ来る為にあったのだ、神様が授けて下さった、とまあ只のお人形という気がしなかったのです。源氏物語の中にも見えて居りますように、昔から災難を托して川に流したり、神社に祀ったり致しますが、そういう宗教的な意味からも、子供として単に愛するという丈でなく、半分は人形として尊ぶ気持です。
 私は幼い時に両親を亡くして後、弟と、祖父母に育てられましたが、そんな境遇からか人になじめない変った性格の子で、一人っきりで人形等いじって遊んではいました。特別に興味を持つという事もなく、文学少女で小説を書きたくて或先生についたり、終戦前雑誌社にお勤めしていた事もあります。
 お人形ですから、表情が動く訳ではありませんが、喜びや悲しみが見えるようで、寒くなると風邪をひいたんじゃないかしらと思い、お留守番をさせると、“連れてって”と泣き出す顔が浮んで来て、大粒の涙がポロ/\こぼれたりします。お八ツを買って慌てゝ帰って来ますが、三度々々の食事も、お風呂も、おシマツも人並ですの。勿論食物が喉へ通る訳ではありませんから香りを食べさせて、あと私がいたゞきます。夜|寝《やす》む時はガーゼを目にあてて、少しでも光線の当りを防ぎます。
 此の頃、ベニちゃんミツキちゃんエイコちゃんと七人の弟妹が出来まして慣れたので、留守番をさせる事が多いのですが、以前はよく連れ歩きました。最初矢張り恥しくて、買物籠の中へしのばせて出たりしましたが、ダッコしていると、殊に女学生等寄って来て、気違いじゃないかしらって笑うんですの。でも、こんなに大事にしているんじゃないかと思ったら、この真剣さを笑う方が却って可笑しい位で、人の嘲笑なぞ問題にならなくなりました。新聞に出ても、どうこういう事はありません。毎日の日記もこの子の事で一杯です。
 お人形に凝り出してから、みんな一様に苦しかった時代ですが、随分生活苦と闘いました。が、どうしても他の職につく気になれません。生計のお人形を造りながら、絵本や玩具で遊んでやるのに忙しい程です。お人形にも魂があると思いますので、、おろそかには造れません。お人形とこうしていると、辛い事もどこかへ消しとんで、一番幸福だという気がいたします。汚い人間の愛情より、私はこの子等への愛情で、私自身満たされて居ます。
 今迄、度々結婚も奨められましたが、所詮男なんて我儘なものですから、私のお人形に対する気持なんぞ解って貰える筈もございません。異性への愛情と人形に対する愛とは別のものですが……。この子等をも含めて総てを包んでくれる人があったら、喜んでその懐にとびこんで行くでしょう。
[#ここで字下げ終わり]

「サン」にこの婦人が人形に御飯をたべさせている写真を見たとき――もっとも、それは御飯でなくてウドンでしたがね、で、ハシにはさんで人形の口のところへ持ってかれたウドンが、むろん人形の口にはいる筈はないからアゴから胸の方へ垂れ下っているのですが、すぐ気にかかるのは、このウドンの始末はどうなるのだろう、ということであった。
 この手記を読むと、それをあとで自分が食べると書いてあるから、アア、なるほど、そうか。私はひどく感心したが、しかし、ちょッと、だまされたような気がして、なんとなく空虚を感じて苦しんだ。人形とともに生活するという夢幻世界の話にしては、ひどくリアルで、ガッカリするな。人形よりも全然人間の方に近すぎて、悲しいや。
 人形の口のところへ持ってったウドンを、次に自分の口へ持ってってたべて、また新しくウドンをハシにつまんで人形の口へ運んでやって、それをまた自分の口へ運ぶというヤリ方であろうか。それとも人形の口の前からいったん元のお茶碗へ返して、また新しくウドンをつまんで、というヤリ方だろうか。そのとき、新しくハシにはさんだウドンの中に実はいっぺん人形が食べたはずのウドンが一本はさまれたとしても、そういうことが気にかからないのだろうか。
 あるいは、別のドンブリ、たとえば自分の茶碗を別に用意しておいて、人形の口へあてがったウドンを自分の茶碗の方へうつして、また新しく人形の口へ人形のお茶碗からウドンをハシにはさんで、というヤリ方であるかも知れないな。相手が物を食べない人形だとなると、こういうことが、ひどく気にかかるな。
 とにかく、人形にウドンを食べさせる、そのウドンを人形がたべた、ということを、どこで納得するのだろう。
 日本では神様や祖先の霊に食べ物を供える習慣がありますね。これはまったく習慣でしょうね。私の女房も私の母の命日に母が好きだった肉マンジュウや郷土料理などを母の写真の前に供えたりする。お供えした方がいいかと私に相談したこともあって、アア、よかろう、私はそう答えたのだろう。ツマランことだと云ってしまえば、まったくその通りであろう。そして、ツマラナイことではない、という反証をあげる方がムリであろう。母の写真の前にはいつも何かしら花を花ビンにいれてある。その花ビンがあるために私のヒキダシをあけることができなくて、私は一々それを動かしてからヒキダシをあけたてしなければならない。まア、めったにそのヒキダシに用がないからいいが、しかしそれでも、そのたびに、どうもウルサイ花ビンだなと舌打ちする。
 しかし、私の女房がほんとうにその気持で母の写真に食べ物や花を供えることを喜んでいる心や習慣があるなら、私自身は自分でそんなことをする気持がなくとも、女房のヤリたいことをやらせて悪いことはなかろうさ。習慣をやめるのはむつかしいし、昔から人のしてきたことが迷信だと分っていても、それを怠ると不吉になるような、そういう迷いもあるだろうし、迷信だ、ツマラン形式だといっても、それをやる個人の気持はその人なりに複雑であるから、個人の特殊な生活には干渉する必要はないね。それが他に迷惑をかけるものでなければ。
 この人形と生活している婦人の場合なども、もとより人に迷惑をかけるようなところはないだろうから、そんなツマランこと、おやめなさいと言う理由は毛頭ないであろう。しかし他人もそれに対していろいろ興味をもったり批評したりキチガイじゃないかなどゝ言ったりするのも、これも仕方がないでしょう。そういう興味や噂の対象になるだけの常規を逸したものがたしかにあるのだから。人がとやかく云うもよし、御当人は御当人で、人のことは気にかけず、自分の生活に没入さるべき性質のもので、どっちにしても御愛嬌というもの、一向に害になるものではないでしょうね。
 しかし、不自然ではある。イワシの頭も信心、アバタもエクボ、なぞと云うように、本人の好き好きで、誰が何が好きになっても仕方のないことではあるが、まだしも蛇が好きで、蛇をたくさん飼って食べ物の世話をやいたり遊び相手になったりするというのはグロテスクではあるけれども分らないことはない。なぜなら、これをグロテスクと感じるのは私の方で、飼主にしてみれば可愛いばかりでおよそグロテスクだとは思わないにきまっている。そしてこのグロテスクという感情問題が解決すれば、蛇を飼うのも犬を飼うのも気持は同じだということが分るであろう。
 この人形の場合は、どうもこう素直に納得できないところがあるなア。なんとなく、自然の感情にひッかかるところがある。たとえば、さッきも云ったように、ウドンを食べさせるときに、どこのところで食べたという納得をうるのか。
 この婦人は人形は食べられないことを知っているね、しかし、食べさせたい気持は分りますよ。それは実によく分るし、特においしいものを食べさせたい、今夜はこれ、明日はあれといろいろ考えもするだろうなア。しかし、実際に食べないという事実にゴツンとぶつかったら、泣きたくなりやしないか。私はハラハラするなア。要するに、実際人形に物を食べさせる本当の所作をするから、そういうやりきれないことが気にかかるんだね。
 おいしい御馳走を作って、それをハシにはさんで人形の口まで持って行った場合に、その次に、それをどうするか、ということが実に実に気がかりだね。どこへどうしても始末がつかず、よくこの人は気ちがいにならないものだね。やりきれなくて、たまらなくなりやしないか。食べることができないのだもの。
 五ツ六ツの女の子が、よく、そんな人形あそびをしてますね。お客に行ったり招いたりして人形に御馳走たべさせたりお風呂へ入れたりしていますね。子供があれで満足なのは分るね。ママゴトにすぎないのだから。
 ところが、この婦人も、ママゴトにすぎないですね。それ以上のものは何もないです。人形とこの婦人の結びつきや生活ぶりは、ただ子供のママゴトと同じことで、それ以上に深いツナガリは何一ツ見られません。
 子供のママゴトは、まだ見ていても気楽で救いがあるなア。人形にたべさせる御馳走だって、ママゴト遊びのオモチャのマナイタの上でこしらえたもので人間の食べられない物か、食べることができるにしても好んで食べたいようなものではない。オフロに入れるにしても形ばかりで、本当に湯を入れてやるわけではない。だから人形が本当は食べることができなくとも、気にならないね。
 この婦人の場合はそうじゃないね。本当に食べることのできるもので、自分の食べ物と同じ御馳走なのだ。それを人形の口まで持って行っても、人形が食べることができないのだから、ハシにはさまれた食べ物が口のところで停止して、たとえばウドンがダラリとアゴから胸へぶらさがったときに、この人が泣かずにいられるのがフシギなのだ。人形の口の前で停止した食べ物の始末をいかにすべきや、そのいかんとしても意をみたすにスベもない悲しさに気がちがわずにいられるのがフシギなのさ。
 大人が何かを愛すということは、こんなものじゃありませんよ。愛す、ということには、その人のイノチがこもるものですよ。とても、とても、子供のママゴトのような、ウスペラなマネゴトですむものではございませぬ。
 人形の口の前まで持ってって、人形がたべたつもりで、それを自分が本当に食べてそれで安心できるのかねえ。人形の食べないことが悲しくならないのは分るが、しかし、その場合には、自分が物を食べるというウス汚い事実に、気がちがわないのかなア。食べるということはウス汚くはないのだけれども、自分の愛する者が実際には食べない場合には、自分が物を食べるということは、ずいぶんウス汚くって、やりきれないと私は思うな。たとえばマツムシだのスズムシなんてものでも、夫婦の一方が物を食べなくなった場合には、一方も物を食べずに餓死するような気がするなア。もっとも、気がするだけで、餓死自殺はやらないね。メスの方がオスの方を食ってしまうそうだね。これも大いに分りますよ。豊島与志雄先生は名題《なだい》の猫好きで、多くの猫と長年の共同生活であるが、何が一番食いたいかというと猫が食いたい、それも自分のウチで飼ってる愛猫が食いたいとさ。本当に愛すということは、その物を食いたくなることだという豊島さんの持論だが、この壮烈な食慾的愛情も分らんことはない。私は胃が悪くって、あ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング