んまり食慾がないから、特に美食がほしいという気持もなく、食慾の満足に多くの愉しい期待をかけていない。だから何かが特に食べたいとも思わないから、愛情を食慾的に感ずることもないのだが、美食家や旺盛な食慾を持った人たちが、自分の本当に愛するものを食べたくなる気持は分らんことはありませんな。本当の愛情にはそういう動物的なところもあるだろうと察せられますよ。
 食慾なんてものは、そういう実質的なものだなア。愛する人形が物を食べないのに、物を口まで運んでやって、食べないという事実にぶつかって、泣きもせずにそこから引き返して平気でいられるのも分らんし、人形が食べないのに、自分だけは実際に食うということに自己破壊を起さないのも分らん。要するに、全然バカバカしいママゴトだね。魂をかけた愛の生活はありませんや。
 この手記をよんでも、夜やすむ時光線が邪魔にならないようにガーゼを当てるとか、寒くなるとカゼをひかないかと心配で、なぞとありますが子供のママゴトも、実生活のマネということではまさしく完璧で、お医者にも見せるし、氷嚢も当てるし、注射もしますし、オシッコもさせるし、要するに、この婦人のママゴトは子供のママゴト以上に魂のこもったところはありません。子供のママゴトにはまだ救いがあるなア。この人のママゴトは本当の食べ物を人形の口まで持ってゆくようなリアルなことをやって、それでオシッコなんて、ちょッと、私は助からん気持でした。
 人形が好きで、人形と一しょに生きてるような人は、きっと、もっと外にホンモノが実在するだろうと思うね。こういうママゴトなどは全然やらずに、本当に人形の魂と自分の魂とで話し合っているような生活が。大人が本当に人形を愛したという場合はそういう魂の問題ですが、この人の場合は、完全に子供のママゴトで、それ以上の何物でもないでしょうな。
 まア、しかし、一生涯、ママゴトをして終るというのも結構でしょう。

     芸者になった人妻の話  河口耕三(卅八歳)

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「妻が夫に無断で夫の許を離れ芸者になったのは、『自分の独立した意志』でなったのだから法律ではこれは取締れない」となれば、啻《ただ》に芸者になった場合に限らず、妻のどんな行為も実は傍観する外はない結論となります。
 結局、妻が……現在の生活に一種の満足感から、夫の反省を求むる言葉など顧みず再考の色もないとしたら、夫は只泣き寝入りの外はなく、妻はしたい放題[#「妻はしたい放題」に傍点]……と云わねばなりません。とすれば、自由民主主義下の現代道義はどうして維持するのでしょうか? それでは、自分勝手ばかりで他人の迷惑など吾れ関せずのアプレゲール流こそ処世の常道の世の中となるではありませんか。それで法的に打つ手がないということは、凡そ締め括りのつかぬ世の中になったものです。何とか制裁の途はありませんか。序《ついで》ながら、右の事態から云えば、夫が妻以外の婦人を愛し、別に生活を持つとしても『自分の独立した意志』なら御勝手次第「妻から離婚を求むるは兎も角として」と云う事になりますが、果して法的制約の途はありませんでしょうか。
 又、『自分の独立した意志』が尊重される結果なら、生活困難な親を顧みない子も制約出来ないのでしょうか。如何でしょう。
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 さて、これはさる新聞の身の上相談欄にでたものだそうで、第一が投書、次が新聞の先生のお答、次がそのお答に不満の投書者の手記で、私はこの第三番目の手記について見解をのべることになっていますが、どういう見解をのべても彼が満足するとは思いません。
 私は田舎住いですが、東京の新聞は、まアだいたい読んでおります。しかし、新聞の身の上相談というところは、ここ二三年、読んだことがありません。新聞の紙面のうちで、この欄が私には一番ツマランところですが、自分で一番ツマランことだと思っているのと同じことを自分がやろうというのだから、私は実にツマラン人物の見本のようなものですな。
 しかし、身の上相談がどうしてツマランかということを、この投書がハッキリ証明していると思います。先生のお答は、別に上出来なところもありませんが、まアこんなことでも云う以外に仕方がないでしょうね。しかし、こういうお答によって、決して事件が解決して投書家の新生活のカギになるようなことはないでしょう。なぜなら、こういう実生活上の人間関係は論理的にはどうにもならんです。ごらんなさい。この男子は、男女同権、人権とか自由とか、そういう基本的なことを全然考えておりません。妻の不貞に制裁を加えることができず、妻の自由意志なら芸者になったのも仕方なしと泣寝入りせざるを得んのが民主時代なら一家心中かムリ心中したくなるのが当然だと彼は怒っております。
 要するにどんな大論理家が身の上相談に当っても、こういうことは論理的に当事者を納得させるような結論は決して出てこないものですよ。当事者二人ともその論理の出発点が全然個性的で、先生の論理と論理の性質を異にしているから、新聞の短い文章で答がでるのは百害あって一利なし。私は、身の上相談欄というものは、単なる読み物で、それも一番低俗な読み物。そういう風に解しております。そういう意味では実に存在の理由があります。
 こういう実生活上のゴタゴタは、公式の裁判に限るようですね。裁判というと大ゲサですが、公式で手軽な調停機関があって、手軽というのは手続きが手軽ということで、調停の仕方が手軽で安直であっては困りますが、両方の身になってよく考えてやって、こういうヒビができると、元の枝へ返すのはムリですから、両者に生活能力があるなら、円満に別れて別々に新しく出発するための良き機縁となり、良き案内者となってやる。そういう機関があって、やってくれると、それが何よりなのでしょうね。しかし各家庭のゴタゴタの世話をやくには大そうタクサンのそういう機関が必要で、日本中のゴタゴタの千分の一に手がまわるだけでも大変だろうなア。
 とにかくハッキリ云えることは、こういうゴタゴタに両者に納得できる論理は実在しないということです。しかし、正しい論理はあるのですよ。だが正しい論理があっても、両者をそれで納得させることは不可能だという意味です。その一ツの証明になるのが、この投書ですよ。
 しかし、非常に親切な調停機関があっても、この人の場合は、うまく両者が納得できて、各々幸福だというような解決をつけてあげられるか、どうか、疑問だと思います。
 まずこの事件の原因は夫が失職して妻が働いたのが失敗の元ですな。この夫は手記の中で(第一の投書)外地の生活は地位の低い方でもなかったというようなことを仰有《おっしゃ》るが、その同じような地位で内地の就職ができない、そして失職してるというような気持があるのでしたら、それが根本的にマチガイでしたでしょう。夫が失職して妻が派出婦になる。派出婦というものは、もしもこの夫のように職業に地位の高低があるとすれば、まず最低の地位の職業ですね。奥さんをそんな最低な仕事にだして一家の生計をたてる必要があるなら、旦那さんたるもの失職してる筈はあり得ませんや。派出婦に匹敵する低い地位の男の職業なら必ずある筈のものです。
 夫が失職して生活できないから、妻がダンサーになった、女給になった、という。こういうことが原因で一家の平和がメチャクチャになるような話は昔から山ほどあったものですね。この夫が考えているような通念からみれば、接客業というものは最低以下の職業ですが女房をそういう最低以下の地位に落して稼がせるぐらいなら、男の職業がない筈はありませんよ。女房にそういう仕事をさせても、自分の方は多少とも社会的地位のある職業でなければならんという考えが、かかる悲劇や家庭破滅の最大の原因をなしております。女房に地位の低い仕事をさせて(奥さんの仕事の地位が低いというのは私の考えではなくて実はあなたの考えなのだが、そのこともあなたはお気づきになっておらんだろうなア)自分は多少でも地位や身分のある仕事をさがして、そのために自分の方には勤め口が見当らん。そして奥さんの稼ぎで自分の生活もおぎなってもらっておりながら、自分の方では相変らず地位だ身分だというようなコダワリがあるとすれば、そういう妙な気位や威張りが、奥さんの目には実にバカバカしく妙なイヤらしいものに見えるのは当然だろうと思いますよ。
 女房の奴メ、不貞だ、手討にいたす、というようなのは、あなたが殿様かなんかで、奥さんにゼイタクをさせて飼い犬のように不自由なく飼っておった場合に、わが意に反することをするといってブン殴ることはできるかも知れんが、男女同権というような新憲法の時代でなくとも、女房をそういう働きにだす以上は、もう女房はないものと思わねばなりません。男の地位や身分をまもるために妻女が最低の地位に落ちて稼ぐというのは、すでにその一家には通常の論理が失われているということを意味しておりますね。その一家が通常の論理の上に安定しているためには、まず男の方がどんな地位の低い仕事についてでも、真ッ黒になってボロを着て指は節くれて掌に血マメが絶えなくとも、男が一家の生計を支えねばなりません。夫に妻の不貞を咎め制裁する権力がないとは何事であるかというような論理を支えるには、さらにその上に、あなたが殿様で犬を飼うように何不自由なく女房を飼っていてのことだ。私は法律だの憲法を云っとるのじゃありません。そういうものではなくて、日本人の通常の家庭生活において、その旧来の習慣をひっくるめ、さらに社会環境をひっくるめ家庭の外部と内部を通観した上で、一家の支えとなる論理について云ってるのです。
 編輯部から持ってきた今月の出来事の中で、一ツ、こんなのがありました。結婚以来三十年という老夫婦、二人の息子が二十九、二十四という大人になってる家庭で、父に金ができたら女遊びをはじめて愛人ができた。母に同情した息子が父を責めてポカポカぶん殴ったので、父は家を出て愛人のところで生活するようになった。息子はそこへも押しかけて行って父を十五か十六ぐらいポカポカぶんなぐったそうだが、息子の後援で母の方から離婚訴訟を起したという事件です。この訴訟を起した直接の原因は家出した父が養子を探しているのを探知した母と息子方の方が、このまま放置しておくと財産を養子にとられる怖れがあって、こうなったものらしい。
 こういうように、実の息子が父の頭をポカポカ十五か十六もなぐるような暴力沙汰に及んで、もはや父と子の和解の道は得られない状態になっても、ここには財産というものがあるために、裁判によって解決の道が得られます。息子がオヤジを十五も十六もぶんなぐっても一家心中ムリ心中、オヤジ殺しなどに至らないのは、財産があって、それが愛憎を適当に解決してくれる見込みがあるからですね。
 ところが、この投書の場合には、物質的に解決する手段がないですよ。父と息子のケンカは財産があることによって起ったような一面もあるかも知れませんが、投書の場合はアベコベに無一物であることから事が発しておって無一物であるために、論理的にも物質的にも両者を納得させる解決ができそうもない。したがって、誰が調停したって、結論は二ツしかない。夫が妻をあきらめて別れるか、妻が夫のもとへ戻って夫が生計を支える働きにつくか。
 ところが、この夫の手記によると、妻の不貞を制裁できない民主国なら一家心中ムリ心中も辞せんと云うし、一方二人の仲にヒビができて不貞という観念が夫の念頭にからみついてしまったのに、芸者をやめて戻ってきた妻が夫に隷属する生活に堪えうるかどうか。この手記によって判断しても、まったくこの夫にかかっては妻は隷属ですからね。
 法律で妻の不貞が制裁できないから、一家心中ムリ心中を考えるという、こういう性質の男は、たいがいの女房に逃げられる性質の男だろうと思いますよ。彼の思想や感情の上で、女房は奴隷にすぎないもの。奴隷は飼われているのだから、飼う能力がなくなれば主人から離れたり逃げるのは仕方がない
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