トのような、ウスペラなマネゴトですむものではございませぬ。
人形の口の前まで持ってって、人形がたべたつもりで、それを自分が本当に食べてそれで安心できるのかねえ。人形の食べないことが悲しくならないのは分るが、しかし、その場合には、自分が物を食べるというウス汚い事実に、気がちがわないのかなア。食べるということはウス汚くはないのだけれども、自分の愛する者が実際には食べない場合には、自分が物を食べるということは、ずいぶんウス汚くって、やりきれないと私は思うな。たとえばマツムシだのスズムシなんてものでも、夫婦の一方が物を食べなくなった場合には、一方も物を食べずに餓死するような気がするなア。もっとも、気がするだけで、餓死自殺はやらないね。メスの方がオスの方を食ってしまうそうだね。これも大いに分りますよ。豊島与志雄先生は名題《なだい》の猫好きで、多くの猫と長年の共同生活であるが、何が一番食いたいかというと猫が食いたい、それも自分のウチで飼ってる愛猫が食いたいとさ。本当に愛すということは、その物を食いたくなることだという豊島さんの持論だが、この壮烈な食慾的愛情も分らんことはない。私は胃が悪くって、あ
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