、それ以上に深いツナガリは何一ツ見られません。
子供のママゴトは、まだ見ていても気楽で救いがあるなア。人形にたべさせる御馳走だって、ママゴト遊びのオモチャのマナイタの上でこしらえたもので人間の食べられない物か、食べることができるにしても好んで食べたいようなものではない。オフロに入れるにしても形ばかりで、本当に湯を入れてやるわけではない。だから人形が本当は食べることができなくとも、気にならないね。
この婦人の場合はそうじゃないね。本当に食べることのできるもので、自分の食べ物と同じ御馳走なのだ。それを人形の口まで持って行っても、人形が食べることができないのだから、ハシにはさまれた食べ物が口のところで停止して、たとえばウドンがダラリとアゴから胸へぶらさがったときに、この人が泣かずにいられるのがフシギなのだ。人形の口の前で停止した食べ物の始末をいかにすべきや、そのいかんとしても意をみたすにスベもない悲しさに気がちがわずにいられるのがフシギなのさ。
大人が何かを愛すということは、こんなものじゃありませんよ。愛す、ということには、その人のイノチがこもるものですよ。とても、とても、子供のママゴ
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