や噂の対象になるだけの常規を逸したものがたしかにあるのだから。人がとやかく云うもよし、御当人は御当人で、人のことは気にかけず、自分の生活に没入さるべき性質のもので、どっちにしても御愛嬌というもの、一向に害になるものではないでしょうね。
しかし、不自然ではある。イワシの頭も信心、アバタもエクボ、なぞと云うように、本人の好き好きで、誰が何が好きになっても仕方のないことではあるが、まだしも蛇が好きで、蛇をたくさん飼って食べ物の世話をやいたり遊び相手になったりするというのはグロテスクではあるけれども分らないことはない。なぜなら、これをグロテスクと感じるのは私の方で、飼主にしてみれば可愛いばかりでおよそグロテスクだとは思わないにきまっている。そしてこのグロテスクという感情問題が解決すれば、蛇を飼うのも犬を飼うのも気持は同じだということが分るであろう。
この人形の場合は、どうもこう素直に納得できないところがあるなア。なんとなく、自然の感情にひッかかるところがある。たとえば、さッきも云ったように、ウドンを食べさせるときに、どこのところで食べたという納得をうるのか。
この婦人は人形は食べられないことを知っているね、しかし、食べさせたい気持は分りますよ。それは実によく分るし、特においしいものを食べさせたい、今夜はこれ、明日はあれといろいろ考えもするだろうなア。しかし、実際に食べないという事実にゴツンとぶつかったら、泣きたくなりやしないか。私はハラハラするなア。要するに、実際人形に物を食べさせる本当の所作をするから、そういうやりきれないことが気にかかるんだね。
おいしい御馳走を作って、それをハシにはさんで人形の口まで持って行った場合に、その次に、それをどうするか、ということが実に実に気がかりだね。どこへどうしても始末がつかず、よくこの人は気ちがいにならないものだね。やりきれなくて、たまらなくなりやしないか。食べることができないのだもの。
五ツ六ツの女の子が、よく、そんな人形あそびをしてますね。お客に行ったり招いたりして人形に御馳走たべさせたりお風呂へ入れたりしていますね。子供があれで満足なのは分るね。ママゴトにすぎないのだから。
ところが、この婦人も、ママゴトにすぎないですね。それ以上のものは何もないです。人形とこの婦人の結びつきや生活ぶりは、ただ子供のママゴトと同じことで
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