にはさんだウドンの中に実はいっぺん人形が食べたはずのウドンが一本はさまれたとしても、そういうことが気にかからないのだろうか。
あるいは、別のドンブリ、たとえば自分の茶碗を別に用意しておいて、人形の口へあてがったウドンを自分の茶碗の方へうつして、また新しく人形の口へ人形のお茶碗からウドンをハシにはさんで、というヤリ方であるかも知れないな。相手が物を食べない人形だとなると、こういうことが、ひどく気にかかるな。
とにかく、人形にウドンを食べさせる、そのウドンを人形がたべた、ということを、どこで納得するのだろう。
日本では神様や祖先の霊に食べ物を供える習慣がありますね。これはまったく習慣でしょうね。私の女房も私の母の命日に母が好きだった肉マンジュウや郷土料理などを母の写真の前に供えたりする。お供えした方がいいかと私に相談したこともあって、アア、よかろう、私はそう答えたのだろう。ツマランことだと云ってしまえば、まったくその通りであろう。そして、ツマラナイことではない、という反証をあげる方がムリであろう。母の写真の前にはいつも何かしら花を花ビンにいれてある。その花ビンがあるために私のヒキダシをあけることができなくて、私は一々それを動かしてからヒキダシをあけたてしなければならない。まア、めったにそのヒキダシに用がないからいいが、しかしそれでも、そのたびに、どうもウルサイ花ビンだなと舌打ちする。
しかし、私の女房がほんとうにその気持で母の写真に食べ物や花を供えることを喜んでいる心や習慣があるなら、私自身は自分でそんなことをする気持がなくとも、女房のヤリたいことをやらせて悪いことはなかろうさ。習慣をやめるのはむつかしいし、昔から人のしてきたことが迷信だと分っていても、それを怠ると不吉になるような、そういう迷いもあるだろうし、迷信だ、ツマラン形式だといっても、それをやる個人の気持はその人なりに複雑であるから、個人の特殊な生活には干渉する必要はないね。それが他に迷惑をかけるものでなければ。
この人形と生活している婦人の場合なども、もとより人に迷惑をかけるようなところはないだろうから、そんなツマランこと、おやめなさいと言う理由は毛頭ないであろう。しかし他人もそれに対していろいろ興味をもったり批評したりキチガイじゃないかなどゝ言ったりするのも、これも仕方がないでしょう。そういう興味
前へ
次へ
全13ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング