はよく連れ歩きました。最初矢張り恥しくて、買物籠の中へしのばせて出たりしましたが、ダッコしていると、殊に女学生等寄って来て、気違いじゃないかしらって笑うんですの。でも、こんなに大事にしているんじゃないかと思ったら、この真剣さを笑う方が却って可笑しい位で、人の嘲笑なぞ問題にならなくなりました。新聞に出ても、どうこういう事はありません。毎日の日記もこの子の事で一杯です。
お人形に凝り出してから、みんな一様に苦しかった時代ですが、随分生活苦と闘いました。が、どうしても他の職につく気になれません。生計のお人形を造りながら、絵本や玩具で遊んでやるのに忙しい程です。お人形にも魂があると思いますので、、おろそかには造れません。お人形とこうしていると、辛い事もどこかへ消しとんで、一番幸福だという気がいたします。汚い人間の愛情より、私はこの子等への愛情で、私自身満たされて居ます。
今迄、度々結婚も奨められましたが、所詮男なんて我儘なものですから、私のお人形に対する気持なんぞ解って貰える筈もございません。異性への愛情と人形に対する愛とは別のものですが……。この子等をも含めて総てを包んでくれる人があったら、喜んでその懐にとびこんで行くでしょう。
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「サン」にこの婦人が人形に御飯をたべさせている写真を見たとき――もっとも、それは御飯でなくてウドンでしたがね、で、ハシにはさんで人形の口のところへ持ってかれたウドンが、むろん人形の口にはいる筈はないからアゴから胸の方へ垂れ下っているのですが、すぐ気にかかるのは、このウドンの始末はどうなるのだろう、ということであった。
この手記を読むと、それをあとで自分が食べると書いてあるから、アア、なるほど、そうか。私はひどく感心したが、しかし、ちょッと、だまされたような気がして、なんとなく空虚を感じて苦しんだ。人形とともに生活するという夢幻世界の話にしては、ひどくリアルで、ガッカリするな。人形よりも全然人間の方に近すぎて、悲しいや。
人形の口のところへ持ってったウドンを、次に自分の口へ持ってってたべて、また新しくウドンをハシにつまんで人形の口へ運んでやって、それをまた自分の口へ運ぶというヤリ方であろうか。それとも人形の口の前からいったん元のお茶碗へ返して、また新しくウドンをつまんで、というヤリ方だろうか。そのとき、新しくハシ
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